めぐみのパンくず

私は「だれを遣わそう。だれがわれわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」    イザヤ 6:8

◎くちびるを燃える炭火で焼かれたイザヤは、きよいくちびる。(神さまのみこころのとおりに語るくちびる)に変えられました。そのイザヤに向かって神さまの呼びかけは「だれを遣わそう、だれがわれわれのために行くだろう。」なのです。

◎神さまが遣わされる民は、心素直に聞く民ではありません。「こころ鈍く、聞こえにくい耳、閉ざされた目を持つ民」なのです。イザヤの時代にはやがて起ころうとする、バビロン捕囚に向かってますます、神さまから離れて行く民の姿がありました。新約聖書でもイエスさまが「種まき」のたとえの中で引用し、「彼らは確かに見るには見るが悔い改めて赦されることがないため」(イザヤ6:1から引用)と語っておられます。福音は人々に簡単には受け入れられません。種まきのたとえのごとく、種まく者は信仰と忍耐が必要なのです。そのためにもみことばを語る者は、神さまのもの(器)とされなければなりませんでした。

◎イザヤが遣わされるところは、むつかしい民たちでした。しかし、みことばが語り続けられるところ、バビロン捕囚という悲しい時を超えて、「聖なるすえ、残された切り株」と言われる神の民が起こされるのです。キリスト者はまわりが困難になればなるほど、反対者が起これば起こる程起こされました。

そこには、神さまの忍耐と聖徒たちの服従があったことを忘れてはなりません。

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