日別アーカイブ: 2014年7月6日

めぐみのパンくず

イエスは、~夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手拭いをとって腰にまとわれた。それからたらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいでふき始められた。“                    ヨハネ13:4,5

◎イエスさまが僕たちの足を洗いなさった大切なヨハネの記録です。過ぎ越しの祭りが近づいてきました。主が十字架に架かられる日が近づいたのです。しかしヨハネは「この世をさって父のみもとに行くべき時」「父が万物を自分の手に渡されたこと」と十字架を超えて復活されるイエスさまの姿を記します。万物の支配者なるイエスさまが弟子たちの足を洗われたのです。

◎上のみことばは七段のへりくだりと言われます。(ピリピ2:6~8)このイエスさまの姿に弟子のペテロは驚きを通り越して戸惑いを覚えました。イエスさまのお言葉は「、後でわかるようになります」でした。イエスさまは愛を余すことなく弟子たちに示すためにこのことをなさったのですが、それは十字架の愛を示すためでした。愛の極みとして洗足された主は、十字架に架かられたのです。ペテロはどんなに深く愛して下さったかを後に知ることとなります。私たちキリスト者は十字架の愛を知る者ですが、今より後に、もっと深い十字架の愛を知る時が来るに違いありません。

◎さて「洗足」ですが、イエスさまに足を洗ってもらわなければ、イエスさまと何の関係もないことと同時に「全身きよくなれない」ことをも覚えておかなければなりません。イエス・キリストを救い主として信じた者は「私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから~」ヘブル10:22きよい存在なのです。でも、足は汚れるのです。キリスト者の歩みは現在地上の歩みです。ですから日々の歩みの中で汚れるのです。ほんの少しでも汚れに気づく人は幸いです。 

◎またみ言葉によって汚れを点検できる人は幸いです。

たとえば、エペソ人への手紙4章26節には怒りについての警告、「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません」とありますが、み言葉に素直にしたがい怒りの中を歩みかけていた心を洗っていただける人は本当に幸いな人です。

◎キリスト者は光の中を歩みます。闇の中を歩いているのではありません。

 罪を犯したらそれが罪だとわかる存在、失敗は失敗と認めることが出来る存在。イエスさまは日々私たちの心を洗いきよめ続けて下さるお方です。