めぐみのパンくず

“イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」ヨハネ9:3

◎視力を失うことは、行動力の80%を制限されると言われます。生れながらの視力障害をもったこの人の不自由さはいかばかりであったことでしょう。しかし、その人の前をイエスさまは通られたのです。「イエスは道の途中で」とありますが、私たち一人一人の前をも通って下さったからお会いできたのですね。

◎しかし、弟子たちのイエスさまに対する質問は辛辣なものでした。この盲人に聞こえていたのでしょうか。聞こえていたとすればいっそうひどい言葉だと思います。「盲目に生まれついた」のは、両親の罪の結果かですか、「この人」の罪の結果ですかと問うのです。必罰的考え、また、生前に罪を犯したのでは・・との問いは、因果応報的な響きです。イスラエルの国でも、そんな考え方があったのかと驚きです。

◎それとは反対にイエスさまのお言葉は何と慰めに満ちたものでしょう。「神のみわざが、彼の上にあらわれるためなり」(口語訳)と言われました。希望の預言者イザヤは救い主の到来の時、その特徴は「盲人の目を開き」と預言しました。イエスさまはつばきで泥をつくり盲人の目に塗られます。全能のお方の目薬のようです。そして言われるがままに、この人はシロアムの池(遣わされた者)に行って洗いました。光が取り戻されたのです。

◎キリスト者は信仰の目が開かれた存在です。イエスさまに信仰の目を開いていただいて、今まで見えなかたものが見えるようになりました。自己の真相がわかり、そのことの為に十字架の赦しがわかり、神さまの子供とされ、神と共に歩む生涯に入れられていることがわかり、天の御国が見えるのです。

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