2023年6月11日聖日礼拝

動画(36分20秒)

聖書 使途の働き6章1節〜7節
説教 「主の心を示す」
説教者 タン・ショーン師


今月の聖句

ホセア書6章6節

わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。


今週の聖句

使途の働き6章4節

私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します。


今週の詩篇の黙想

詩篇126篇

  1. 詩篇126篇は6節から構成されるコンパクトな詩篇です。岩淵亮さんはこの詩篇から「涙とともに種を蒔く者は喜び叫びながら刈り取る」というワーシップソングを作詞作曲され全国で歌われていました。「主がシオンを復興してくださったとき私たちは夢を見ている者のようであった。」(1節)バビロンで奴隷とされていた民が、クロス王により奴隷から解放されてエルサレムに変える夢の様な旅の歌です。「主が私たちのために大いなることをなさったので私たちは喜んだ。」(3節)

  2. 「主よネゲブの流れのように私たちを元どおりにしてください。」(4節)詩篇記者は私たちを元どおりにしてくださいと祈っています。バビロンからエルサレムに帰ってきましたが、再建という大変な大きな仕事が待ち受けていました。荒れ果てたエルサレムの町で神殿の再建工事が始まりました。城壁の石を塵芥から掘り出し、磨き積み上げていく大きな仕事です。それだけではなく自分の生活の再建もして行かなければならない経済の問題とも戦わなければなりません。さらに周辺諸国の妨害、仕事から離脱する人、再建の信仰を失う人もいます。不満が指導者のエズラ、ネヘミヤに向かいます。こんな中で詩篇の記者は、エルサレムの再建、繁栄、喜びを取り戻してくださいと祈っています。

  3. 「涙とともに種をまく者は喜び叫びながら刈り取る。」(5節)種を蒔くのになぜ涙が伴うのでしょうか。カルビンは詩篇の講解説教で涙の意味を語っています。カルビンの時代もこの詩篇の時代も食料が十分な時代ではありませんでした。植える種を大切に保存しなければなりません。しかし食糧危機になれば、植える種も食べなければならない誘惑があります。食べたい種を涙ながらに我慢して土の中に農夫は種を蒔きました。家族の空腹に耐えながら、土の中に貴重な種を蒔いて行きます。土の中で腐るかもしれません。カラスにやられるかもしれません。しかし、種を蒔かずにその時、食べてしまったら収穫はありません。今食べたくても、涙ながら我慢して信仰をもって種を蒔くなら、束を抱えて帰ってくる喜びがあります。今、苦しくても、たねを蒔くことの勧めです。今日に於いて、時間、富、賜物の消費、浪費しないで、種まきと言う形で信仰の投資、霊的種まきをすることの勧めです。その投資は涙の出てくる身を切るような投資かもしれませんが、後に束となって抱えて喜び叫ぶことができます。時間をささげ、お金をささげ、持っている力をささげ、大きな喜びの束を抱える時を期待して信仰の種を蒔き続けましょう。シャローム。

    2023年6月4日聖日礼拝

    動画(40分35秒)

    聖書 創世記33章1節〜11節
    説教 「和解の祝福」
    説教者 高橋博師


    今月の聖句

    ホセア書6章6節

    わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。


    今週の聖句

    コリント人への手紙第二5章18節

    これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。


    今週の詩篇の黙想

    詩篇125篇

    1. 今日は詩篇125篇を味わいましょう。「主に信頼する人々はシオンの山のようだ。揺るぐことなく、とこしえにながらえる。エルサレムを山々が取り囲んでいるように、主は御民を、今よりとこしえまでも囲まれる。」(1~2節)イスラエル、エルサレムは第一に地理的な概念です。エルサレムの町はシオンの丘の上に建てられ、山々で囲まれ、南、東にキデロンの谷があり難攻不落の天然の城でした。エルサレムは軍事的に難攻不落の城だけでなく、主の宮、創造主を礼拝する場所であり主の御名が置かれてある主の宮、主の神殿でありました。外敵から軍事的に守られるだけでなく、主はエルサレムで礼拝する民を「悪の杖」から守ってくださいます。杖とは王の権威のしるし。悪の権威、罪、欲の支配が神の民に及ばないように、主は礼拝するものを守って下さいます。

    2. コリント第一6章19節では「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」と書かれて、私たちクリスチャンは「聖霊の宮」と表現しています。詩篇で書かれている宮、エルサレムを、聖霊の宮である私たちに置き換えて読みましょう。主は礼拝する神の民を取り囲んで守って下さいます。外敵が侵入して聖霊の宮である私たちに、悪の杖、不正な判断が侵入しないように祈りましょう。今日も私たちのたましいが平安であるようにお祈りをささげましょう。

    3. 5節には「まがった道にそれる者ども」「不法を行う者ども」という言葉が書かれています。主はそれらを追い出してくださいます。今日も心の中に罪が忍び込んで、不正に導くことのないように、聖霊の宮に平和があるように祈りましょう。

    2023年5月28日聖日礼拝

    動画(35分03秒)

    聖書 創世記32章3節〜12節
    説教 「神と自我の格闘」
    説教者 高橋博師


    今月の聖句

    テモテへの手紙第二4章7節〜8節

    私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。


    今週の聖句

    テモテへの手紙第二1章7節

    神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。


    今週の詩篇の黙想

    詩篇124篇

    1. 詩篇124篇から聖歌81番が生まれています。しかし聖歌61~84番の歌う詩篇が礼拝で歌われることは少ないです。新聖歌には採用されません。スコットランドのカベナント教会、改革長老教会は詩篇150篇全部に韻律をつけて英語讃美歌にして毎週礼拝で高らかに賛美しています。昔マッソン先生というスコットランド出身のWEC宣教師がおられました。アコーデオンを弾きながら、この詩編124篇、聖歌81番を「主もしわれらのかたに、いましたまわざりせば」と文語交じりの賛美を英国人の先生が礼拝で力強くリードしておられたのが忘れられません。

    2. 「もしも主が私たちの味方でなかったなら」と否定形仮定法の命題が二度繰り返されています。もしもイエス様を信じていなかったなら、もしあのときイエス様を信じる決心をしていなかったら、今頃どんな人生を送っているか、想像することがあります。罪の誘惑の嵐に吹き荒らされて自分で自分の人生を破壊していたのではないか、と想像される人も多いと思います。そのような想像は、今の生活の恵みの大きさを実感させてくれます。

    3. WECの創立者CTスタッドがアフリカに行く前、清国と呼ばれていた時代の中国の奥地で伝道していました。雨が降らなかったので中国人は雨が降るようにみんな偶像の神にお参りをしていました。それでも雨が降らないのは偶像の神にお参りをしなかった西洋の鬼を信じている宣教師のせいであると、CTスタッドの家に群衆が押し寄せて投石、火を放って焼き討とうとしました。群衆がCTスタッドに家を取り囲んでいる時、村の長老が来て、こんなことをしている暇があったらもっと熱心に山の祠で祈りなさいと言ったので群衆は引き上げて行きました。CTスタッドはこのような問題との戦いをすり抜けて伝道を続けました。「ほむべきかな。主。主は私たちを彼らの歯のえじきにされなかった。私たちは仕掛けられたわなから、鳥のように助け出された。」(6節)と告白して、「私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある」と高らかに神様を賛美しています。天地を造られた主を仰いで歩みましょう。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8章31節)

    2023年5月21日聖日礼拝

    動画(38分20秒)

    聖書 創世記31章1節〜16節
    説教 「共におられる神」
    説教者 高橋博師


    今月の聖句

    テモテへの手紙第二4章7節〜8節

    私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。


    今週の聖句

    ヘブル人への手紙13章5節

    金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。


    今週の詩篇の黙想

    詩篇123篇

    1. 今日の123篇は苦しみの詩篇です。「ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。」(2節)都のぼりの歌です。エルサレムへの巡礼が華やいだお祭り気分の浮ついたものになりがちです。そんな中でエルサレム、やがて救い主が十字架について罪を贖ってくださるところへの礼拝の旅であることの本質を見失わないで歌っている詩篇であります。奴隷という言葉は、エジプトでの奴隷時代を連想します。罪の奴隷という言葉も思い浮かびます。ローマ書7章にかかれてあるように、したい善を行うことが出来ず、憎んでいる罪を行ってしまう、私は哀れな罪の奴隷であります。誰がこの罪から解放してくださるのか。「あなたに向かって私は目を上げます。」(1節)と詩篇記者は叫んでいます。

    2. エルサレムの神殿のかたわらで、罪人の私をあわれんでくださいと胸をたたいている取税人にイエス様は目を留めています。(ルカ18章13節)目を上げてイエス様のことを思う時、イエス様は私を罪の奴隷から救ってくださり、泥だらけの罪人の私を変えてくださいました。もしイエス様を信じていなかったら今なお罪の道を暴走しているとおもうと主に感謝をささげずにはおれません。巡礼の旅の中においても詩篇の記者は目を主に向けています。

    3. 「私たちはさげすみで、もういっぱいです。私たちのたましいは、安逸をむさぼる者たちのあざけりと、高ぶる者たちのさげすみとで、もういっぱいです。」(3~4節)。礼拝に向かう旅の中においても安逸をむさぼる者の声、高ぶる者のさげすみを受けています。私たちの天国への旅も問題の連続です。天国への旅の途上においても、気が緩んで、私たちの中にも安逸、高ぶりが出てくるでしょう。毎週の礼拝は、天国への旅の一里塚です。本当に天国の門にいる日まで、謙遜に、目を主に向けて、周囲からのさげすみやいじめがあっても、あわれみを請いつつ歩んで行きたいと願っています。今日も安逸、むさぼり、高ぶりの罪から守られるように心静めて祈り、主のあわれみを求めましょう。シャローム。