主日礼拝説教:2026年10月4日(日)
聖書箇所:出エジプト記25章23~30節
説教題:臨在のパン
暗唱聖句
机の上には臨在のパンを置き、絶えずわたしの前にあるようにする。
出エジプト記25章30節
説教音声
説教要旨
絶えずわたしの前にあるようにする
神さまとイスラエルの民との間に契約が結ばれた後、神さまに呼ばれて山に登ったモーセは、「幕屋と幕屋のすべての備品」に関する神さまの長い説明を聞きます。一つ目は箱作りでした。十戒の書き記された二枚の石の板、「さとしの板」を納める箱です。
二つ目に作るのは机です。「注ぎのささげ物を注ぐための皿、ひしゃく、瓶、水差し」、そして、パンを置くための机です。「注ぎのささげ物」というのは具体的にはぶどう酒です。つまり、机はぶどう酒とパンを置くためのものです。机というよりは、食事のためのテーブル、食卓です。
机の上に置くパンのことは「臨在のパン」と呼ばれています。「臨在」というのは、神さまがそこにおられるという意味の言葉です。「臨在のパン」と訳されているヘブル語は、直訳すると、「御顔のパン」となります。神さまの御顔の前にあるパンです。神さまご自身が臨在のパンの置かれたテーブルに着いておられるのです。臨在のパンはその神さまの御顔の前に置かれているのです。
出エジプト記の次のレビ記によると、机の上に置く臨在のパンは全部で十二個です。十二個が指し示しているのはイスラエルの十二部族です。神さまがご自分の民とされたイスラエルの民全体です。そして、そのイスラエルの十二部族を指し示す臨在のパンについて、神さまは「絶えずわたしの前にあるようにする」と言われます。イスラエルの民は、神さまの民として、片時も離されることなく、いつも神さまの御前に置かれたのです。そして、それは、旧約聖書に登場するイスラエルの民だけではありません。主イエスさまの十二弟子から始まった新しいイスラエル、私たちの教会も、同じように神さまの御前に置かれているのです。
私たちはすぐに神さまを見失います。しかし、神さまはいつも私たちのことを見ていてくださいます。神さまの御前に置かれた臨在のパンのように、いつも私たちのことをご自分の御前に置いていてくださるのです。もちろん、監視するためではありません。神さまは、私たちのすべてをご存じのうえで、私たちをご自分の御顔の前に置いていてくださるのです。
信仰生活とはいつも神さまの御顔の前にあることを覚えて生きることです。神さまは、私たちの失敗や間違いも、誰にも言えない恥ずかしい経験も、私たちのすべてを知っておられます。そのうえでなお、私たちのことを愛していてくださいます。私たちはそのようないつくしみ深い神さまの御顔の前に置かれていることを覚えて生きるのです。
臨在のパン
新改訳2017で「臨在のパン」と訳されているところは、新改訳3版や他の日本語訳聖書では「供えのパン」と訳されています。供えとパンと言えば、神さまに召しあがっていただくための供え物のように思われるかもしれません。しかし、神さまは私たちがお供えをしなければ、生きていけなかったり、機嫌を悪くされたりするような方ではありません。神さまは、私たちに生かされる方ではなく、私たちを生かす方です。神さまこそが私たちを生かしてくださる方です。そして、そのことを示すように、神さまは幕屋の中に食卓を置いてくださったのです。ご自分の食卓に私たちを招いていてくださるのです。
幕屋の机に置かれた臨在のパンと注ぎのささげ物は、私たちが聖餐式でいただくパンと杯を指し示しています。
イエスさまは、私たちが罪を赦されて新しく生きるために、十字架の上で私たちの罪を背負って血潮を流してくださいました。十字架の上で砕かれたイエスさまのからだと、十字架の上で流された血潮こそが、聖餐のパンと杯です。もちろん、聖餐のパンと杯が、そのままイエスさまのからだと血潮に変化するのではありません。死んでよみがえられたイエスさまが、聖霊によって、聖餐のパンと杯に臨在しておられるのです。私たちは、信仰によってそのパンと杯をいただきながら、イエスさまのいのちに生かされている恵みを味わうのです。
パンは食べるものです。じっと眺めているものではありません。食べられなければ意味がありません。食べられてこそ、パンは私たちのいのちを養う糧となるのです。そして、イエスさまが願っておられるのは、ご自身を私たちのいのちの糧として与えることです。私たちに求められているのは、イエスさまを自分の救い主と信じて受け入れることです。
イエスさまは私たちを聖餐に招いていてくださいます。まだ洗礼を受けておられない方も、信仰へと導かれ、洗礼を受けて聖餐にあずかり、イエスさまのいのちに養われて生きる恵みをともに味わうことができますようにと願います。
祈り
罪人の私たちがあなたの御前の置かれている恵みを覚えて感謝します。新しい一週間も、イエスさまのいのちに養われている恵みを覚えて生きることができますように。主イエス・キリストの御名よって祈ります。アーメン。

