- 日時:2026-09-27
- 聖書箇所:第一コリント12章12~31節(12~13節)
- 説教題:多くの器官、一つのからだ
暗唱聖句
あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。
第一コリント12章27節
説教音声
説教要旨
私たち一人ひとりは「キリストのからだ」にしていただきました
「ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。」(12)
人間の身体にはさまざまな部分、器官があるけれども、それらが組み合わさって一つとなってからだをかたちづくっています。ただ寄り集まっているのではなく、調和をもって組み合わさっています。教会はキリストのからだです。からだであるからには、さまざまな部分であるお互いには違いがあますが、それらが有機的に、すなわち緊密な統一があり、互いになくてはならないものとして存在しています。教会とはそのような共同体です。
からだには多くの部分があるのです。互いに違いを持っています。たまたま集まったので違いがある、というのではなく、神さまがわざわざ違いを持っているお互いを集めてくださいました。神さまがそうしてくださったのですから、教会はその違いが大切にされるところです。私は足であって手ではないから、からだには属さない、などということはありません。いくらそのように主張したところで、からだに属さなくなるわけではありません。違いがあるからといって、それで教会の一部でなくなるわけではありません。また目が手に向かって「あなたはいらない」ということはできません。それと同じように、あなたは私と違っているので必要がない、とは言えません。言ってはいけない、というのではなく、言えないのです。それが教会に生きる、教会生活を営むということです。
私たちは、さまざまな違いを持ちながらも、みなキリストのからだ、としていただきました。罪を持ち、弱さの中にある私たちが、キリストの十字架と復活の御業によって、あがなわれ、キリストのからだ、としていただいたのです。私たちの努力やわざによるのではなく、ただ主が一方的な愛をもって私たちをご自身のからだとしてくださいました。主にある者はみな、キリストのからだの部分なのです。不必要な人は誰もいません。主のからだでない人は一人もいないのです。
私たちは「一つのからだ」としていただきました
「私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。」(13)
コリントの教会には、ユダヤ人、ギリシア人、奴隷、自由人が集っていました。ユダヤ人は自分たちを選民と思っていましたので、ユダヤ人でない人たちと一緒にいることはできなかったはずです。またギリシア人は、ローマが地中海世界を支配するまえには支配者でしたので、彼らなりにプライドは高かったと思います。奴隷は人として扱われませんでした。逆に自由人は何不自由のない生活をしていたことでしょう。一緒に集まることの難しい、あるいは不可能な人たちでした。しかし教会は、そのような違いを乗り越えて一つに集まっていたのです。これは驚くべきことです。
洗礼を受ける、ということは、一つのからだとなることです。さまざまな違いを乗り越えて一つのからだとなることです。洗礼は、主の十字架と復活によって自分が救われたことの目に見えるしるしです。罪びとの私に対して、神さまが一方的に「ゆるす」と宣言してくださったことを公に確かにするときです。それは、個人的なできごとのように思いますが、聖書は、洗礼は私たちが一つのからだとなることであった、と語ります。また聖餐は、パンとぶどう汁をいただくことですが、それは主のからだと血を食し、キリストのからだとしていただくことです。そうして私たちは日々主のおからだに変えていただきます。
私たちを救うお方は、唯一まことの神だけです。私たちはみなこの「唯一」のお方によって贖いを受け、このお方がともにいてくださることを信じています。その神さまが「唯一」なのですから、その唯一であるお方のからだの部分となった私たちも一つであるはずなのです。
からだの一つひとつの部分がいくら健康でも、総体としてのからだに調和がなければ、健康とは言えません。キリストのからだである教会が健康であるためには、それぞれの部分が健康であることは大切なことかもしれませんが、それ以上に、すべての部分がキリストのお心のままに生きている、キリストのご支配の中に機能している、ということが必要です。さまざまな違いを持ちながらも、みな同じ主に贖われたのです。主が「唯一」のお方なのですから、私たちがその主に従って生きようとするならば、一つであることは当然です。分裂しているならば、それは主に従っているのではなく、自分という偶像に従っているのかもしれません。神さまの豊かなご支配の中に喜んで生きようとする私たちは、ともに主のからだとされた兄弟姉妹とともに生かされています。主とともに生きる、ということと、兄弟姉妹ととも生きる、ということは一つのことなのです。
祈り
あなたは私たちに一つとなる喜び、恵みを教えてくださいました。互いの違いをそのままに一つとなるようにとあなたは招いてくださいました。あなたのご支配の中に身を委ねる者とならせてください。

