詩篇100編は全地の民に対する礼拝への招きです。その詩篇100編の冒頭では喜びが強調されています。「喜びの声を上げよ」、「喜びをもって」、「喜び歌いつつ」。
喜びは心の中から自然に沸き上がってくる感情です。詩人は礼拝者の感情を無理に高ぶらせようとしているのではありません。
詩人は喜びの根拠を大胆に宣言します。「知れ、主こそ神」。天地を造られた主こそがまことの神さまであることを知る、そのところに礼拝は喜びである根拠がある、詩人はそう宣言するのです。
「主こそ神」であることを知るというのは、ただ単にそのような知識を持つことではありません。「知れ。主こそ神」という宣言は、「主が私たちを造られた。/ 私たちは主のもの 主の民 その牧場の羊」という告白へとつながります。「主こそ神」であることを知るとは、神さまの民として養われている恵みを喜び、神さまを信頼し、神さまに自分をゆだねて生きる者になることです。そして、礼拝とは、「主こそ神」であるという宣言を聞いて喜び、「主が私たちを造られた。/ 私たちは主のもの 主の民 その牧場の羊」と応答していくところです。
私たちは喜びを失うことがあります。しかし、神さまはそのような私たちの神さまであり続けてくださいます。どんな時にも、私たちをご自分の民とし導いてくださいます。神さまご自身が私たちの喜びの根拠なのです。
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。(ピリピ人への手紙4章4節)