主日礼拝説教:2026年8月30日(日)
聖書箇所:出エジプト記24章12~18節
説教題:主の栄光
暗唱聖句
主の栄光はシナイ山の上にとどまり、雲は六日間、山をおおっていた。七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。
出エジプト記24章16節
説教要旨
彼らを教えるために
神さまとイスラエルの民との間に契約が結ばれた後、モーセは再び山に登ります。神さまから石の板を受け取るためです。石の板には「教えと命令」が書き記されています。具体的には十戒のことだと思います。そして、その十戒について、神さまは「彼らを教えるために、わたしが書き記した」と言われました。神さまが石の板に十戒を書き記されたのは、「彼らを教えるため」でした。神さまとともに生きるというのは、神さまから教わり続けることです。
神さまが十戒を通して教えたいと願っておられるのは、ちょっと大胆な言い方をすれば、私たちが主イエス・キリストと出会うことです。なぜなら、十戒と十戒を中心とする律法や旧約聖書全体は、イエスさまを指し示しているからです。イエスさまこそが十戒と律法のゴールなのです。十戒と律法の目標はイエスさまと出会うことです。それは、別の言い方をするならば、神さまの民としてふさわしくない、そんな私たちを決して見捨てないで導いていてくださる神さまの愛を受け取り続けていくことです。
私たちが十戒を通して教えられるのは自分の罪です。十戒を通して、聖書全体を通して、私たちはどこまでいっても自己中心な自分の罪と向き合うことになるのです。しかし、それだけではありません。教えられるのは、そんな罪人の私たちを、神さまが愛していてくださることです。
聖書は神さまの愛を語ります。しかし、その愛というのは、私たちを気分よくさせてくれるだけの言葉ではありません。聖書が語るのは、神さまが罪人を愛していてくださることです。神さまは、ご自分に背いた罪人の私たちを愛していてくださるのです。あなたとともに生きたい、あなたの人生を支えたい、そう願っていてくださるのです。そして、だからこそ、神さまは御子イエス・キリストを与えてくださいました。私たちが神さまの民とされるために、かけがえのない御子イエス・キリストのいのちまでも犠牲にしてくださったのです。神さまの愛はいのちがけです。だからこそ、その愛はどんな時にも決して変わることがありません。そして、私たちがそのような愛に支えられていることを、神さまは十戒を通して教えていてくださるのです。
山の頂を焼き尽くす火
モーセが山に登ると、雲が山をおおいました。雲は神さまがそこにおられることのしるしです。そして、神さまがそこにおられることは、次に栄光という言葉で表現されます。そして、聖書はその栄光の現れを「山の頂を焼き尽くす火のようであった」と説明します。火はさばきを意味する言葉です。
聖書は神さまの愛を語ります。そして、その愛というのは、何でもありを認めるものではありません。愛なる神さまは、同時にさばく方です。まことの神さまは、私たちの言いなりになる方ではなく、私たちをさばくことのできる方なのです。そして、神さまがさばく方であることを覚えるのは、とても大切なことであるように思います。なぜなら、神さまがさばく方であることを忘れるのは、イエスさまの十字架を意味のないものにしてしまうことだからです。
神さまなら、ただ一言、「赦す」と言って、私たちの罪を赦してくださることもできるのでしょう。実際に神さまがそうされるなら、イエスさまは十字架にかかる必要もなかったはずです。しかし、神さまは御子イエスさまを十字架の上でさばかれました。それは徹底的に私たちのためなのだと思います。私たちが罪の赦しを確信して生きるためです。自分の罪をイエスさまが十字架の上で背負ってくださった、よみがえって今もともにいてくださる、この十字架の死と復活がなければ、罪の赦しの確信が揺らいでしまうのです。私たちは、イエスさまが十字架の上でさばかれてくださったからこそ、どんな時にも罪の赦しを確信することができるのです。
神さまはさばく方です。それは神さまが恐ろしい方だとうことではありません。神さまは恐怖で私たちを支配しようとしておられるのではありません。神さまがさばく方であるのは、私たちを徹底的に愛していてくださるからです。私たちを愛していてくださるからこそ、神さまは御子イエス・キリストを十字架の上でさばかれたのです。それは、私たちが、イエス・キリストによって、どんな時にも罪の赦しを確信して、神さまの御前に立つことができるためなのです。
祈り
イエスさまの十字架の死と復活のみわざによって、神さまの御前に出ることができる恵みを覚えて感謝します。新しく始まる一週間も、神さまご自身の恵みに支えられながら、神さまの民として、神さまのみこころに生きる私たちとしてください。主イエス・キリストの御名よって祈ります。アーメン。