- 日時:2026-08-23
- 聖書箇所:第一コリント12章1~3節
説教題:聖霊によって語る
暗唱聖句
聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。
第一コリント12章3節
説教音声
説教要旨
神さまはイエスさまを信じた者すべてに聖霊の賜物を与えてくださった
「御霊の賜物については、私はあなたがたに知らずにいてほしくない」(1)。11章の後半で聖餐について語ったパウロは、続いて「御霊の賜物」、すなわち聖霊の賜物について知っていてほしい、と語ります。
聖書は父、子、聖霊の三位一体の神さまを語ります。この第三位格(いかく、人間で言うと人格のこと)である聖霊の賜物とはいったい何か。教会ではギフト、タラント、カリスマなどいくつかの言葉でも表現されていると思いますが、健やかな信仰生活、教会生活を送るためには、このことを知ることが必要です。
例えば「語る賜物」があるとか「音楽の賜物」があるといった具合にその人の能力を賜物ということがありますが、賜物というからには単に能力のことをいうのではありません。賜物とは「賜った物(たまわったもの、いただいたもの)」という言葉ですから、神さまから恵みによって与えられたものということです。もし自分の能力を自分の力で手にしたものであるというならば、それは能力であって聖書の語る賜物ではありません。自分の努力ということも含めて神さまが愛をもって与えてくださったもの、と捉えたときに賜物ということができます。さまざまな能力もそうですが、こうして生かされていることも含めて神さまからの賜物です。静かに自分自身を振り返ってみると、どんなに豊かな賜物が与えられているかに気づきます。
かつての私たちは誘われるまま、ものを言えない偶像のところに引かれていた
コリントの教会には賜物の豊かな人たちが集まっていました。しかしそれが教会に問題を生み出していました。それでまずパウロは救われる前の自分たちの姿を彼らに思い出させようとします。せっかく救われたのに、救われる前の生き方と何も変わっていないではないか、と語るのだと思います。
救われる前、すなわち異教徒であったときの生き方とはどのようなものであったのか。「誘われるまま、ものを言えない偶像のところに引かれて行った」。それがかつての生き方でした。
誘われるまま、自分の足でしっかりと立ち、また歩くことができないような不安定な生き方。ものを言えない偶像のところに引かれて行く生き方。偶像はものを言えない、語ることができないのでそれをいいことに、その前に引かれて行った人間は自分が語ります。好き勝手なことを語ります。そうして「イエスはのろわれよ」とまで言うのです。
かつてはそのような生き方であったが、今は救われて新しい生き方になったはずである。にもかかわらず偶像礼拝者であったときと何ら変わらないような生き方になってしまってはいないだろうか。もちろん、イエスはのろわれよ、などと言うことはないと思います。しかしその生き方において、異教徒の時のような生き方になってはいないだろうか、と聖書は問いかけます。
聖霊によらなければ「イエスは主です」と言うことは不可能である
イエスさまを信じる者は「イエスは主です」と告白する者です。イエスさまを信じたけれども、イエスは主ですと私は告白しない、ということはありません。イエスは主ですと告白しない、ということは何ものをも主人としないということではなく、自分自身を主としていることです。主人は自分である、というようなことであれば、イエスさまを信じたとは言えません。
聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。イエスさまを信じることは、聖書の知識が深まったからできるというものではありません。信仰生活をずいぶん長くやって来たので信じることができた、ということとも少し違います。理屈を超えています。人間の力で信仰を持つことはできないのです。ですからイエスさまを信じた、ということであれば、すでにそこに聖霊が働いておられます。
ここで「神さまは主です」とか「聖霊は主です」ということではなく、「イエスは主です」と聖書は語ります。神さまを信じる、とか霊を信じるということではなく、二千年の昔、パレスチナの地に生きたお方。十字架にかかり私のためにいのちを捨ててくださったお方。復活して今もともにいてくださるイエスさまを信じること。そしてそのお方を「私の主」「私の主人」とすること。それが聖霊のなせる業です。
賜物で混乱が起こっていたコリントの教会。そこでは、この「イエスは主です」の告白ではなく、まるでものを言わない偶像を拝んでいるかのように、自分自身を主とするようなことになっていたのだと思います。「私が主」か、それとも「イエスが主」か、二つに一つです。豊かな賜物があり、その賜物が生かされて教会が健やかに建て上げられていく。そのためには、すべてにおいて「イエスは主です」との告白がなされていることが大切なのです。聖霊は、私たちに「イエスは主です」と告白できるように導いてくださいます。
祈り
イエスさまを主と仰ぐ者としてくださったことを感謝します。天の御国に帰るときまで、あなたを主として歩み続けることができるように御霊に満たしてください。

