- 日時:2026年03月22日
- 聖書箇所:第一コリント10章14~18節
- 説教題:祭壇の交わりにあずかる者
暗唱聖句
ささげ物を食する者は、祭壇の交わりにあずかることになるのではありませんか。
第一コリント10章18節b
説教音声
説教要旨
賢い人たちに話すように
「私は賢い人たちに話すように話します。私の言うことを判断してください」(15)。
「 知恵ある者はどこにいるのですか」(1・20)と語られたコリントのキリスト者たちに向かってここでは全く逆に「賢い人たちに話すように話す」と語られています。この世の賢さではなく、イエスさまを信じて新しく生き始めた者の新しい賢さ。その新しい賢さによって自分で判断してほしいとパウロは語ります。信仰は強制によってではなく、イエスさまと出会った一人ひとりが与えられた新しい賢さによって自分が判断することで生まれ、前進します。
偶像礼拝という試練から逃げる
「むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい」(13d~14)。
偶像礼拝を避けなさい、と聖書は語ります。偶像礼拝と戦いなさい、とか、偶像礼拝を滅ぼしなさい、とは語りません。避ける、とはいかにも消極的な感じがしますが、聖書はそう語るのです。避けるという言葉は、逃れる、逃げるという意味を持っていて、その前節の「脱出の道」とも重なります。試練とともに脱出の道も神さまは備えてくださる、だからその脱出の道へと逃れなさい。そうして偶像礼拝を避けなさい、と聖書は語ります。
「悪を貪ること」(6)、すなわち「偶像礼拝」(7)、「淫らなことを行う」(8)、「キリストを試みる」(9)、「不平を言う」(10)こと。これらをしてはいけないと聖書は語りました。これらはすべて神さまを神さまとしない罪がもたらすものです。神さまを神さまとしないことは、何をも神としない、ということではなく、神さま以外の神々、とくに自分を神とすることである、と前回も学びました。神さまを神さまとしないこと自体が偶像礼拝なのです。その偶像礼拝を避る。
しかし、イエスさまを信じて罪赦され永遠のいのちをいただいてもなお罪びとである私たちは、どうしてもこのような悪を貪ること、すなわち偶像礼拝をやめられません。とくに不平を言ってはいけない、と言われてその通りに生きることが果たしてできるのだろうかと思います。それはまさに試み、試練なのだと思います。この悪を貪る偶像礼拝の試練にさらされている私たちに向かって聖書は、神さまはその試練にも脱出の道を備えてくださる。だから偶像礼拝を避けなさい。いたずらに戦うのではなく偶像礼拝から逃げなさい、と語るのです。
礼拝という脱出の道 キリストとの交わり
ではどこに向かって逃げるのか。脱出の道はどこにあるのか。
「私たちが神をほめたたえる賛美の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか」(16)。
聖餐式において私たちはパンとぶどう汁を食します。それはキリストのからだとキリストの血にあずかることである、と聖書は語ります。この「あずかる」ということばは「コイノーニア」、交わりということばです。聖餐式はキリストとの交わりなのです。このキリストとの交わりこそ私たちが逃れる場所です。偶像礼拝から逃れる道はこれ以外にはありません。
聖餐式、あるいは賛美と祈りが献げられ、聖書のことばが語られる礼拝において私たちはキリストとの交わりをいただきます。この礼拝こそ、私たちの逃れの道、脱出の道です。どうしても悪を貪る、不平を言うといった偶像礼拝に生きてしまう私たちに、この神さまが備えてくださった逃れの道である礼拝に逃れなさい、と聖書は語るのです。
礼拝という脱出の道 兄弟姉妹との交わり
「パンは一つですから、私たちは大勢いても、一つのからだです。皆がともに一つのパンを食べるのですから」(17)。
礼拝においてキリストとの交わりをいただく私たちは、そのパンが一つなのだから、私たちも一つである、と語ります。大勢だけれども一つになろうというのではありません。どんなにばらばらに見えたとしても、キリストのからだであるパンにあずかっているということは、すでに一つなのです。偶像礼拝という試練にあう私たちは、キリストとの交わりに逃れるとともに、この兄弟姉妹の交わりの中に逃れます。
礼拝におけるキリストとの交わりと兄弟姉妹との交わりは切り離すことができません。
「肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。ささげ物を食する者は、祭壇の交わりにあずかることになるのではありませんか」(18)。
礼拝は祭壇の交わりにあずかることである。ともにキリストとの交わりに生かされ、兄弟姉妹の交わりの中に生かされていく。その逃れ場をキリスト者はいただいています。悪を貪ろうとする誘惑、試練の中で、礼拝という逃れ場に逃れながら、信仰の道をまっ直ぐに進んで行きたいと思います。
祈り
逃れの道としてあなたとの交わりである礼拝を備えて下さりまことにありがとうございます。喜びと感謝をもって礼拝にあずかる者としてください。

