「どのような敵にわれわれが出会うことがあっても、<その敵を神が愛しているのだ、その敵のために神がすべてを差し出しているのだ>と考えることが大切なことなのである。」
(ボンヘッファー、『主のよき力に守られて』より)
キリスト教信仰とは、私が神さまに愛されているということ、を知ることです。十字架と復活によって神さまはその愛を具体的に示してくださいました。神の愛を知ることは十字架と復活を信じることです。しかしそれにしてもどうしてよりによって神さまは私を愛してくださったのでしょうか。愛される理由が私の中にあったのでしょうか。
聖書は人間はみな罪人であると語ります。その罪人のひとりである私が神さまに愛されているのです。神さまの愛がどんなに素晴らしいものであるのかを知るためには、私自身が決して愛されるものではないことを知らなければなりません。
そのような神さまの愛は、私にだけむけられているのではなく、すべての人にむけられています。ですから、どのような人に出会うことがあっても、その人を神さまは愛しているのだ、その人のためにイエスさまは十字架にかかってくださったのだ、と考えることが大切です。
これがわからないと愛するということは分かりません。しかしこれがわかると愛するということがわかってきます。
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