主日礼拝説教 2023年6月4日(日)

  • 主日礼拝説教:2023年6月4日(日)
  • 聖書箇所:マタイの福音書19章16~30節
  • 説教題:永遠のいのちを得るために

●説教音声

●みことば

それは人にはできないことですが、
神にはどんなことでもできます。

マタイの福音書19章26節

●みことばの一滴

◎永遠のいのちを求めて

一人の青年がイエスさまのところにやって来ました。永遠のいのちを得る道を探し求めてやって来ました。イエスさまならばそれに応えてくださるかもしれない、と希望をもってやって来ました。
その青年にイエスさまは、戒め、すなわち律法を守りなさい、と答えられました。青年は、答えました。「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか」。
高慢な言葉にも聞こえます。しかし永遠のいのちを求めて、真摯に律法に生きようとしてきたけれども、どうしても心に確認が持てない者の悲しみの言葉とも聞こえてきます。
イエスさまは、「完全になりたいのなら、帰って、財産を売り払い貧しい人たちに与えなさい、そうしてわたしに従って来なさい」と言われました。
このイエスさまの言葉に青年は悲しみながら帰っていきました。なぜなら多くの財産を持っていたからでした。永遠のいのちを得るためにすべてを捨ててイエスさまに従いたい、しかし多くの財産を手放すことはできない、その悲しみの中に立ち去って行ったのです。私たちは多くの財産を持ってはいないかもしれません。しかしこの青年の悲しみはそれぞれなりに想像できることではないでしょうか。

青年は永遠のいのちを求めて「どんな良いことをすればよいか」と問いました。それに対してイエスさまは「与えなさい」と答えられました。永遠のいのちは、何かを「する」という生き方の先にあるのではなく、「与える」ということによって手にすることができると言われたのです。これは生き方の方向性の問題だと思います。

「永遠のいのちを得る。あるいは祝福の道を歩む。幸せな人生を送る。平安な日々を送る。それらは、何かを「する」ということによって生み出されるものである」。私たちはそのような生き方の方向性をもって生きているのではないかと思います。それに対してイエスさまは「与える」こと、すなわち手から離す、ということによって、天に宝を持つことになる、と言われたのです。

財産を手放すことはできないかもしれません。またさまざまな責任の中に生きている私たちにはふさわしくないかもしれません。しかし「する」とか「得る」という生き方に終始しているならば、永遠のいのちの恵み、素晴らしさに生きることは難しいのです。大きなことはできないかもしれませんが、「与える」という生き方を大切にしたいと思います。

◎神にはどんなことでもできます

悲しみを抱いて帰っていく青年を、おそらくイエスさまは青年の抱く悲しみ以上の悲しみを持って見送っておられたと思います。イエスさまは弟子たちに言われました。金持ちが天の御国に入ることは難しい、らくだが針の穴を通るほうがよほど容易いことである、と。つまり難しいというよりも、不可能である、と言われたのです。
それを聞いた弟子たちはたいへん驚きました。それでは、いったいだれが救われるであろうか、と。当時、富む者、すなわち経済的にも健康的にも社会的にも豊かな中にあるということは、神さまの祝福がある、ということだ、富む者は、貧しい者に対して天の御国に入ることができる者である、と考える人がいたようです。ですから弟子たちは、富む者が救われないとすれば、いったい誰が救われることができるだろう。もはや誰も救われることなど不可能ではないか、と驚いたのでしょう。
そのような弟子たちに向かってイエスさまは、彼らの心の中を見抜くようにじっと見つめて言われました。それは人にはできないことだが、神さまにはできないことはない、どんなことでもできるのだ、と。富んでいるかそうでないかに関わりなく、救いは神さまの御手の業である、そもそも人間には不可能なことなのだ、ただ神さまのお心によってのみ人間は救われるのだ、と言ってくださいました。

その言葉が語られたとき弟子のペテロが言いました。私たちはすべてを捨ててあなたに従ってきました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。
いま人間には不可能だと言われたばかりなのに、またこののち十字架にかかると言われているイエスさまに(16・21)向かって「私たちは、すべてを捨てて、従ってきました! それで、私たちは何をいただけますか?」と言える厚顔さ、というか、無知というか、ペテロらしいというか。そばにいたなら恥ずかしくなるような言葉です。
イエスさまとしては、ペテロよ、いま言ったではないか。救いは神さまの一方的なご愛による御業なのだ、人間が何かを行ったからその見返りにいただけるようなものではないのだ、と叱りつけてくださってもよかったかもしれません。
しかし驚くべきことにイエスさまはそんなペテロに向かって、そして同じ思いであったであろう弟子たちみんなに向かって言われました。わたしに従ってきたあなたがたは新しい世界でわたしと一緒に12部族を治める、わたしのために愛する者や財産を捨てた者は、その百倍を受ける、永遠のいのちを受け継ぐのだ、と。イエスさまの限りない忍耐と慈しみに満ちた言葉です。神さまはこのような弟子たちをも救うことのできる全能者なのです。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」(マタイ5・3)。

貧しさとは財産のことだけではありません。社会的な地位の貧しさ、学識の貧しさ、さらには霊的な貧しさ、信仰的な知識の貧しさ、すべてにおいて貧しい、ということが、神さまの豊かなご支配の中に生きる道なのです。あるいは貧しいからこそ神さまがおられなければ生きていけない自分であることをわきまえ知ることができるのです。貧しいからこそ、その貧しい自分を自らの手から離して、神さまの御手の中に委ねきることとなるのです。そこでこそ永遠のいのちに生きる者となるのです。まことに幸いなことです。

●祈り

父なる神さま。富める青年の悲しみは、私たちの悲しみでもあります。またペテロのように私たちも高慢と無知から自らを誇ります。そのような私たちを招き続けてくださる主イエスさまの十字架の愛を感謝します。委ねきることのできない私を、そのままにあなたに委ねます。尽きることのないいのちに生きる幸いを教えてください。


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