私は、語りかける声の主を見ようと振り向いた。(黙示録1・12)

  • 私のたましいは黙って ただ神を待ち望む

    静まりの時

    • テーマ:決断
    • 聖書箇所:詩篇62・1~12
    • 日付:2026年06月12日(金)

    1 私のたましいは黙って ただ神を待ち望む。
     私の救いは神から来る。
    2 神こそ わが岩 わが救い わがやぐら。
     私は決して揺るがされない。

    5 私のたましいよ 黙って ただ神を待ち望め。
     私の望みは神から来るからだ。
    6 神こそ わが岩 わが救い わがやぐら。
     私は揺るがされることがない。

    救いは神から来る。望み、希望は神から来る。客観的な真理を語っているとともに、信仰の決断、信仰の告白なのだと思います。
    客観的な真理として、救いや望みが神からやってくるので、私は揺るがされることがないのだと思います。しかしそれとともに、信仰の決断、信仰の告白として、救いや望みが神から来ると信じ告白する者は、揺るがされることがないのだと思います。

    神さまは、岩であり、救いであり、やぐらです。ですから揺れ動くことがないのです。その神さまにお頼りする者は揺るがされることがないのですが、お頼りしないならばやはり揺るがされてしまいます。神さまは、自らに頼ることを待っていてくださいます。

    神さまに頼るとは具体的にどういうことであるのか。

    8 民よ どんなときにも神に信頼せよ。
     あなたがたの心を 神の御前に注ぎ出せ。
     神はわれらの避け所である。セラ

    神さまにお頼りする。神さまに信頼する。それは、私の心を神さまの御前に注ぎ出すことです。信頼は心を注ぎ出すことにおいて明らかになります。心を注ぎ出さないのは信頼していないのです。

    心を注ぎ出すことは、祈ることです。祈りは、私の心を注ぎ出すこと、です。心の中に溜まったものを、神さまの前に注ぎ出す。一つひとつを祈ります。

    私たちが安心して自らの心を注ぎ出すことができるのは、神さまが愛であり義であるからです。神さまは愛だけでもなく、義だけでもないので、安心してすべてのことを注ぎ出すことができます。神さまが愛であり義であることは、キリストの十字架において明らかにされました。私たちは十字架の主を見上げて祈ります。