私は、語りかける声の主を見ようと振り向いた。(黙示録1・12)

  • 逃げ口上

    人間の真剣なことがらというものは、とどのつまりは理由なく存在しているのである。それはどんなにたずねても答えのないものなのである。そして私は、そのことに人生の不条理を感じるのである。
    だがイエスの誕生の場合はちゃんと理由がつくられている。ただその理由は人々に納得されないものだというだけなのである。理由はないというのではないのだと逃口上をつくっているように思われるのだ。むしろ私は、理由がないというきぴしさのほうをえらんだだろうに、卑怯にもその点を逃げているのである。しかもたしかにその折角の理由も、人々に納得されないということによって残酷なものとなる。全くもしマリヤが聖霊によって身ごもったのが事実だとすれば、私には、神はなんというむごいことをするのだろうと思われたのである。マリヤにとってもヨセフにとってもひどい災難だったにちがいないからだ。聖霊によって身ごもったんだと言ったって、まさに世間のひとは誰も納得してくれなかったにちがいないということによってだ。
    マリヤは、ロマの兵隊にでも強姦されたんだろうというひともあるが、その二人にとってその方がまだしもすくわれたであろう。それにはとにかくひとの納得できる理由というものがちゃんとあるからである。

    椎名麟三、『私の聖書物語』、中央公論社、1959年8月30日発行、21頁

    ふむふむ。