2012年05月29日(火)
そのようにして私たちは、神を、私たちの罪深い状態を守ってくださる方として、御用し勝ちである。しかし神は、そのような誤用を許されない。たしかに良い羊飼いの手から私たちを奪い取ることのできる者は、誰もいない。しかし、私たちを救い守るその手が―その羊飼いの手が、同時に陶工の手でもあろうとするということも、同時にたしかなことである。そしてその陶工は、自分の陶工を、捏ねて形を造り窯で焼いて堅牢なものにしようとするのである。そのような第二の意味でも神の御手の中にいる心備えが私にはあるだろうか。
リュティ、『この日言葉をかの日につたえ』、188頁
(ヨハネ14章20節)
神さまの御手は、羊飼いの手であると同時に陶工の手です。羊飼いの手として私たちを無限の愛で包み込み守り導き養ってくださいます。しかしまことの神さまは私たちが罪の中にとどまり続けることを良しとされません。それで、今度は陶工の手をもって私たちを造り変えてくださるのです。造り変えられることは、時に厳しいことです。つらいことです。しんどいことです。しかしその方向にたしかな希望があるのです。自らが造り変えられ、神さまの栄光を反映する者にして頂けるという希望があるのです。
今しばらくはつらいかもしれません。しかし今までにまさる主の祝福があることを信じ、このしばらくの時を耐え忍びたいと思います。