静まりの時
- テーマ:回心
- 聖書箇所:マタイ21¥28~32
- 日付:2026年08月08日(土)
28 ところで、あなたがたはどう思いますか。ある人に息子が二人いた。その人は兄のところに来て、『子よ、今日、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。
29 兄は『行きたくありません』と答えたが、後になって思い直し、出かけて行った。
30 その人は弟のところに来て、同じように言った。弟は『行きます、お父さん』と答えたが、行かなかった。
31 二人のうちのどちらが父の願ったとおりにしたでしょうか。」彼らは言った。「兄です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。
32 なぜなら、ヨハネがあなたがたのところに来て義の道を示したのに、あなたがたは信じず、取税人たちや遊女たちは信じたからです。あなたがたはそれを見ても、後で思い直して信じることをしませんでした。
主イエスの問いは、「どちらが父の願ったとおりにしたか」、でした。父の願いとは「今日、ぶどう園に行って働いてくれ」というものでした。ぶどう園に行って働こうとしたのは兄の方でしたから、「あなたがた」すなわち「祭司長たちや民の長老たち」(23)が答えたように、兄が父の願ったとおりにしたことになります。
一見、口先で何を言うことよりも実際の行動が大切である、行動こそが信仰の真価を問うのである、とも読めるように思います。しかし聖書全体が語ろうとしていることや文脈を考慮すると、どうもそうでもないような気がします。
主イエスの解説を見ると、祭司長たちや民の長老たち、と、取税人や遊女たち、が対比されています。宗教的に義人であると自認している人たちと、どこから見ても罪びととしか見えない、自他ともに罪びとと認めている人たち。
その生き方を比較するならば、一般的には祭司長たちや民の長老たちの方が神の国に入るように思いますが、イエスさまはそうではなく取税人や遊女たちの方が先に神の国に入るといわれました。行いでは祭司長たちや民の長老たちに軍配はあがります。しかしイエスさまは生き方ではなく、信仰を問われました。信じたかどうか。後で思い直して信じることをするかどうか。
父の願いとは、信じること、なのです。どんなに立派な生き方をするか、ではなく、神さまを信じること、それが父の願いに生きることです。
少し極端に言うとすれば、神を信じるということは、神に信頼するということであって、それ以外のものには自分を生かすものとしての信頼を置かない、ということです。祭司長たちや民の長老体には、自分を生かすものとして神以外のものをたくさん持っていました。自分の中にたくさんの義をもっていたのです。それに対して取税人や遊女たちは、神の前に立つことの出来る材料を何ひとつ持っていませんでした。ですからひたすら神に信頼するしかなかったのです。いわゆる行動では何ひとつ宗教的な基準を満足させることはなかったのですが、だからこそ、神さまを信じるしかなかった。それが、父の願いに生きる、ということです。
「思い直す」(32)。私たちはいつでも、思い直す、自由を持っています。しかし自分に固執すると、この思い直すことに不自由になります。正しくあろう、整合性を保とうといったプライドが邪魔します。以前にあれだけ信仰に反対していたのに今度は信仰を持つなどと言う、あの心変わりはなにか、などと揶揄されることを嫌います。しかし人生が首尾一貫している人は一人もいません。朝に言うことと夕に言うことが変わってしまう、それが人間です。変なプライドなど捨てていつでも神さまのもとに幼子のようになって帰ればいいのです。神さまはそのように願っておられます。