私は、語りかける声の主を見ようと振り向いた。(黙示録1・12)

  • 愛と平和の神はあなたがたとともに

    静まりの時

    • テーマ:主を喜ぶ
    • 聖書箇所:第二コリント13・11~13
    • 日付:2026年07月24日(金)

    11 最後に兄弟たち、喜びなさい。完全になりなさい。慰めを受けなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。

    喜ぶこと、完全になること、慰めを受けること、思いを一つにすること、平和を保つこと。この五つに生きるならば、愛と平和の神がいつもともにいてくれる。パウロはそう語りました。これらが欠けてしまうと、神さまはともにいてくださらない、とも読めますが、神さまはどんなときにもともにいてくださいます。ですから、これらが欠けてしまうと、ともにいてくださるはずの神さまが見えなくなってしまう、ということかもしれません。

    神さまがともにいてくださるにもかかわらず、それが感じられない、とするならば、これらが欠けてしまっているからである。そうであれば、神さまがともにいてくださることを味わい知るためには、これらを追い求めればよいということです。

    この五つのことは、別々のことではなく、互いにつながっています。たとえば最初の「喜び」はそのほかのものを真実のものとします。喜びのない完全さ、喜びのない慰め、喜びのない一致、喜びのない平和。いずれも真実のものとは言えません。

    12 聖なる口づけをもって互いにあいさつを交わしなさい。すべての聖徒たちが、あなたがたによろしくと言っています。
    13 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。

    あいさつを交わす。そこに神さまがおられる。私たちが誰かに、よろしく、と語るとき、それは神さまからのよろしく、であり、すべての兄弟姉妹からのよろしく、でもある。

    この13節は礼拝の祝祷で広く用いられていることばです。手紙は筆者から読者への愛の言葉ですが、そこに交わりがあります。その交わりの中で、互いに神さまの祝福を祈り合う。礼拝も、もともとは、交わり、です。前に立つ者と会衆との対話です。今日の教会が、講演会のようなスタイルになったのは、比較的近年のことです。講演会のようなスタイルの礼拝では、対話としての礼拝の在り方が希薄になってしまいましたが、たとえば交読文のようなところに少し片鱗が残っています。

    礼拝の最後に持たれることの多い祝祷も、もともとは、祝福、ということで、前に立つ者と会衆とで互いに祝福の言葉を掛け合う、そうして新しい一週間に出発する。それが礼拝における祝祷でした。ですから前に立つ者は聖書に従って「あなたがたすべてとともに」と語ります。会衆は、アーメンという場合が多いのですが、言葉に出さなくても、牧師とともに、と語ります。そういう祝福の言葉の掛け合いの中に、新しい週への旅に皆が出発します。