このことをだれにも言ってはならないと人々に命じられた

静まりの時

  • テーマ:主のいやし
  • 聖書箇所:マルコ7・31~37
  • 日付:2026年09月09日(水)

33 そこで、イエスはその人だけを群衆の中から連れ出し、ご自分の指を彼の両耳に入れ、それから唾を付けてその舌にさわられた。
34 そして天を見上げ、深く息をして、その人に「エパタ」、すなわち「開け」と言われた。
35 すると、すぐに彼の耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話せるようになった。
36 イエスは、このことをだれにも言ってはならないと人々に命じられた。

耳が聞こえない、そして口がきけない。その苦しみの中にある人を、人びとはイエスさまのところに連れてきました。手を置いてほしい、すなわちいやしてほしいと人びとは懇願しました。イエスさまはそれに答えてくださいました。耳が聞こえず口がきけない人は、いやされ、聞き、語る人に変えられました。

心にとまるのは、このいやしに関してイエスさまは、ところ払いをされたこと、そして、このことをだれにも言ってはならないと口止めされたこと。

鮮やかないやしのわざですから、人びとの目の前でなされたら多くの方が神さまのわざを見ることができたでしょう。それによって神さまを信じる人も起こされたことでしょう。また口止めされるのではなく、より多くの方にこの出来事を宣べ伝えたならば、福音のわざは前進するのではないだろうか。

しかし私たちの主は、いやしに関してところ払いをし、人びとに告げ知らせることを止められるのです。

一人の人を大切にする、という意味があったのかもしれません。それとともに、いやしのみわざは、誤解、を生み出すことになったのかもしれません。

いやしのみわざを見て、人びとは力強い神を信じたかもしれないが、必ずしも十字架の主イエスを信じる信仰が生まれることにはならない、ということかもしれない。

聖書の時代、神さまを信じている人は数多くいたのです。あるいはほとんどの人が神さまを信じていたのです。そのような人びとに向かって初代教会は、主イエスを伝えました。十字架と復活を宣べ伝えること。それがキリスト教会の宣教でした。それが本当に神を信じることである、と宣べ伝えました。ですから、いやし、は大切なことなのですが、十字架と復活を宣べ伝えることにおいて、誤解を与えることにもなったのだと思います。