私は、語りかける声の主を見ようと振り向いた。(黙示録1・12)

  • キリストに望みを抱いている

    静まりの時

    • テーマ:復活の福音
    • 聖書箇所:第一コリント15・12~19
    • 日付:2026年04月09日(木)

    19 もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。

    他の訳では以下の通り

    19 この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。(新共同訳)

    19 この世にあって、キリストに単なる望みをかけているだけなら、私たちは、すべての人の中で最も哀れな者となります。(共同訳2018)

    新改訳2017で「地上のいのちにおいて」と訳されている言葉は、新共同訳では「この世の生活で」、共同訳2018では「この世にあって」。

    英語の「life」には、生命、いのち、という意味とともに、人生、生涯、生活という意味があります。文脈から考えて意味を推測する必要がある単語だと思います。もしかしたらこの節でも同じようなことが起こっているのかもしれません。

    いのちと生活、この世。これらは言葉としては区別されるものですが、つながってもいます。いのちなくしてこの世での生活はありません。日々の生活が喜びと感謝に満ちたものとなるために「キリストに望みを抱く」。それとともに、復活の信仰に生きる私たちは、永遠のいのち、においても、キリストに望みを抱いています。いやむしろ永遠のいのちにおいてこそ、キリストに望みを抱いています。

    コリントの教会にこのような言葉を語らなければならなかったということは、彼らの信仰生活が、この世に終始してるかのようなものに見えたからでしょう。私たちはイエスさまを信じて新しくされました。それは、今生かされているいのちが、すでに永遠のいのちに結びつけられていることなのです。

    主にある者は尽きることのないいのちをいただきました。いつも私たちは、永遠のいのち、永遠の生活に思いを向けながら生きることができます。

    布引スタジアム下の桜並木

    https://youtu.be/OP5bWy0e0ms