カテゴリー: 新井奥邃

  • 「基督たる神を有せざる者は、清気ありと雖も神血なし。清気ありと雖も聖血なくんば、人は人を成さず。」

    「基督たる神を有せざる者は、清気ありと雖も神血なし。清気ありと雖も聖血なくんば、人は人を成さず。」

    新井奥邃、『聖言』、160

    「キリストである神を持たない者は、清気があるといっても神さまの血がない。清気があるといっても神さまの聖なる血がないならば、人は人となることはできない。」

     「清気」すなわち清らかな心がいくらあったとしても、そこに神さまの「血」このばあい「いのち」と考えてもよいのかもしれませんが、それがないならば人間はまことの人間となることができない、と新井はいいます。
     まことの人間とは何か。それは神を愛し隣人を愛する愛に生きる者であり、人はそうしてまことの人間となっていくのです。そのためには神さまの聖なる血が必要なのです。
     「血」と聞くと、キリスト者はみな聖餐式におけるぶどう酒(汁)のことを真っ先に思い描くでしょう。キリスト教信仰は、精神的な信仰にとどまらず、からだ全体で神さまを信じることを大切に考えてきました。それを豊かに現わしているのが「聖餐式」です。
     聖餐式は、パンを食べぶどう汁を飲むキリスト教会における礼典です。パンをキリストのからだ、ぶどう汁をキリスト血として、食するのです。理屈を超えたところにおいてキリスト教信仰を豊かに生きるのです。
     もちろんパンはどんなに祈ってもパンですし、ぶどう汁もぶどう汁から実質的に変化するわけではありません。信仰をもっていただくときにそれがキリストの体であり血なのです。信仰のない者が食しても何の意味もないのですが、信仰のある者が食する時、その信仰が豊かにされていきます。
     信仰があるかないかの基準は、洗礼を受けているか否かです。信じたという自分の感情ではなく、信仰の告白と水による歴史的な事実としての洗礼の上に信仰を確認します。ですから人間の弱さを越えて聖霊の現臨が聖餐式を確かにします。

    〔聖書の個所〕

    また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。
    (マタイ26章26~28節)

    そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」
    (使徒2章38~39節)