カテゴリー: 新井奥邃

  • 「夫れ血無ければ情有らず。情無ければ性有らず。性無ければ人有らず。存する能はざればなり。基督は人の中に在り、其霊血を以て在(い)ませらる。故に人は人を成す。」

    「夫れ血無ければ情有らず。情無ければ性有らず。性無ければ人有らず。存する能はざればなり。基督は人の中に在り、其霊血を以て在(い)ませらる。故に人は人を成す。」

    新井奥邃、『聖言』、162

    「血がなければ情を保有しない。情がなければ性を保有しない。性がなければ人を保有しない。キリストは人の中に存在している、その霊と血をもって存在しておられる。ゆえに人は人を形成するのである。」

     血と情と性。これらがいったい何を意味しているのかが問題です。
     肉体と心と性質といった感じでしょうか。人間は肉体だけで生きているのではなく、また精神だけで生きているのでもありません。肉体も精神も切り離すことのできない一体の中に生きています。新改訳聖書ではこれを「からだ」と現わしています。人間はこのからだにおいて生きています。
     ギリシャ語では生命、いのちのことを二つの言葉で表されています。松永先生の言葉を引用しましょう。

    「一つは「ビオス」といい、もう一つは「ゾーエー」といいます。ビオスというのは自然の生命現象、つまり生理学的な生命を示しています。心臓が鼓動しているとか、脈があるとかという領域の命です。ゾーエーのほうは、アイオーニオス(永遠の)といった形容詞を伴って、ゾーエー・アイオーニオス(永遠の生命)といった表現が多いように、肉体の死にもかかわらず、なお生き続けるような生命を指しています。」(松永希久夫、『イエスの生と死』11頁)

     ビオスの生命だけではなく、ゾーエーの生命を生きて初めて人間は人間として生きていると言えるのです。肉体を含むからだはさまざまな弱さをもっていますが、その内にキリストが宿ってくださる時に、まことのいのち、永遠のいのちに生きる者となります。そうして、この「からだ」に生きつつ「永遠のいのち」に生きるという奇跡が私の人生におこるのです。

     神さまは霊的な存在ですが、霊的な存在だけでは私たちは知ることができません。たとえ知ることができたとしても私と共にいるということを、人間の経験とすることができません。しかしキリストはこの地に来られ私たちと同じ肉体をまとってくださったまことの神です。その霊血をもって存在しておられるキリストが私の内に生きてくださるのです。

    〔聖書の個所〕

    あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
    (第1コリント6章19節)

    私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。
    (第1コリント10章16節)