カテゴリー: 新井奥邃

  • 「夫れ定命無ければ自由なし。乱而己。自由の存する所以は定命と相待てばなり。定命の自由に於ける亦然り。」

    「夫れ定命無ければ自由なし。乱而己。自由の存する所以は定命と相待てばなり。定命の自由に於ける亦然り。」

    新井奥邃、『聖言』、27

    「天から定められている運命、あるいは寿命がなければ、本当の自由はない。ただ秩序なく乱れてしまうだけである。本当の自由が存在するためには、天から定められている運命、あるいは寿命と共に、自由を保持しなければならない。また運命や寿命が自由のうえに成り立つということもそのとおりである。」

     自由ということを単に好き勝手にするというふうに考えがちですが、好き勝手にするということは、自分の感情の奴隷になっているだけであって、決してほんとうの自由ではありません。本当の自由とは、選択の自由です。自分のやりたいこと、やるべきことを妨げるものが、たとえ自分自身であっても、それにとらわれることなく、行うということこそ真の自由なのです。
     この自由は、「定め」ということと深くかかわっています。
     定めを「運命」と理解するならば、敷かれたレールの上をただひた走るような冷たい人生を想像しますが、「摂理」と言った場合、愛の神さまによる導きや思し召しということを含めた暖かい人生を思い浮かべます。
     この人生にはやがて「死」がやってきます。「死」は私たちの人生に限りがあることを教えてくれます。限りある人生だからこそ、大切に歩もうとします。大切に歩もうとするところに、選択の自由が生まれるのです。毎日を大切に、また丁寧に生きる者でありたいと思います。

    〔聖書の個所〕

    そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
    (ヨハネ8章31~32節)

    罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
    (ローマ6章20~23節)