投稿者: 塩辛と お茶漬け

  • 神の栄光のためか、それとも人間の栄光のためか

    〔新しい歌を主にむかってうたえ〕

    2014年5月6日(火)

    神の言葉を愛する者は、この世で最も美しいものを用いて神の言葉を飾ろうとすることをやめようとしない。
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    われわれは、いったいどのようにしたらにせものや、失敗した作品の中から、ほんものや、素晴らしいものを見分けるための鍵を手に入れることができるのであろうか。
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    われわれの歌と演奏が、ただ神の栄光とイエス・キリストの栄光だけを宣べ伝えようとするものなのか、それとも音楽の尺度と中心は人間にあるのかということである。
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    神の栄光のための音楽に関して、ルターはさらに次のように理解している。すなわち、音楽が、多くの人々の涙を限りなく乾かし、抑圧されている人々を陽気にさせ、欲情をいだいている人々を打ちすえ、しいたげられている人々を奮い立たせ、誘惑されている人々を強くするものであると、そしてまた、音楽が、多くのかたくなな心に涙をよみがえらせ、多くの大罪人を神の慈しみに対する悔改めへとうながすものであると理解しているのである。

    ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~
    村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、225頁ff。

    絵画であれ彫刻であれ、音楽であれ、あらゆる芸術活動は、神さまの栄光を、そしてイエスさまの栄光をたたえるためにあるのです。それを人間の栄光をたたえるために用いられたものは、この世的にいかに価値のあるものといわれようと、「にせものや失敗作」であり礼拝の場所にはそぐわない、とボンヘッファーは語ります。

    神さまの栄光のための芸術は、人々を慰め励まし、悔い改めに導くものである、といいます。

    (祈り)
    神さま、あなたの栄光をたたえることができますように。