2011年10月16日の礼拝では使徒の働き13章13~43節を学びましたが、少し心の整理ということでブログに記録を残しましょう。
使徒の働き13章38-39節です。
新改訳聖書では、
ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。
使徒の働き13章38-39節 新改訳
新共同訳聖書では、
だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。
使徒言行録13章38-39節
“δικαιόω”という単語は、岩隈直、『新約ギリシャ語辞典』によると、
(1)に旧約、70人訳の用法として
- (イ)正しいことを認める、正しいと言明(主張)する、正しいものとして取り扱う。(受)正しいことが判明する
- (ロ)正しいと宣言(告)する。(受)無罪の宣告を受ける、(神より)義(無罪)と認められる(宣告される)、義とされる
- (ハ)解放する、清める
となっています。
このうち新共同訳は(ロ)を採用し、新改訳は(ハ)を採用したということでしょう。
新共同訳で読むと、「モーセの律法では義とされえなかった」ということですから、新約聖書に登場するイエスさまの時代のユダヤの人々は、義としていただこうとしてモーセの律法を守っていたということです。モーセの律法を守ることによって神さまから義としていただける、すなわち神さまとの関係を正しくしていただけると信じていたということです。しかし一所懸命モーセの律法を守っても神さまから義として頂くことができない、神さまとの関係が回復されないのだ、とパウロが語ったこととなります。そのような現実に、イエスさまを信じることによって神さまに義と認めて頂くことができるのだと語ったことが人々の心を惹きつけたということでしょう。
これに対して新改訳に従うと、「モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点」ということですから、彼らは解放して頂こうとしてモーセの律法を守っていたということになります。自由になるために、罪人であった自分たちがその罪の奴隷から解放されるために、モーセの律法を守っていた、モーセの律法を守ることが自由への道であったのです。しかし現実にはモーセの律法をいくら守っても自由になることができなかったと彼らも実感していた、と読むことができるのではないでしょうか。
モーセの律法が与えられ何も考えずにこれさえ守っていたらいいんだよ、と教えられると、妙な納得がおこり、非常にシンプルに生きることとなり、自由な気がします。もちろんモーセの律法から派生したタルムッドはそんなに単純なことではないようですから、結果的にはずいぶん複雑なこととなり、ぜんぜん自由でない生き方になったようです。
パウロは請われて語ることとなった説教(使徒13章16-41節)の中で、旧約聖書と主イエスさまの十字架と復活を語りました。ざっとですがパウロの焦点は主の復活にあるようです。究極の不自由といえる十字架の道の先に復活があるということをしつこくまた力強く語っているように思えるのは私だけでしょうか。
主イエスさまは律法をもう古くさい教えであり、ただ皆さんを縛っているナンセンスなもので、そんなものは行わなくても良いんですよ、といったのではなく、わたしを信じることによって、信じるということは、主の歩まれた十字架の道を歩むことによって、モーセの律法を完全に守ることができる、そうして、神さまから義と認めて頂ける、そしてその道はまさに「解放される」「自由にされる」道である語ったのではないでしょうか。
私たちは自分のやりたいように生きることが自由なような気がしますが、それはこの世界の中にあってたいそう心許ない自分というもののただ奴隷になっているだけでしょう。そのから解放されるために、一所懸命モーセの律法を守ろうとしたのですが、かえって不自由になってしまいました。神さまに造られた私たちは、神さまのみこころに生きて初めて本当の解放を知り、自由に生きるものとなるのです。それが主イエスさまを信じ愛して生きる道に実現されるのです。
神さまの道を選択することは、この世から見れば、あるいは自分から見れば、ずいぶん不自由な道かもしれません。しかしその道の先に神さまの用意して下さった真実な自由の道があるのです。究極の不自由である十字架の道を歩まれた主イエスさまは、父なる神さまによって復活せられ、死という絶対的な不自由からも自由にされたのです。この主イエスさまを信じ、イエスさまを愛し、イエスさまの喜ばれる道に歩むとき、私たちも罪の奴隷から解放され、まことの自由と充実の中に生きることができるのです。また神さまはそのような道を備えて下さるのです。
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