私は一般に日本の習慣となっている「喪中につき年賀欠礼」というのはキリスト者も守るべきことかといつも疑問に思ってきた。自分はあまりにも悲しいので「おめでとう」とも言えないというようなこともあるかもしれない。それよりも、しかし、日本社会の通念として死の穢(けが)れを身に帯びた者は社会の交わりに加わることを遠慮させられたのである。私たちの季節の挨拶は新年よりも降誕祭の挨拶である。そうであるならば、むしろ、悲しみの暗黒にある者であればあるほど、このザカリアの預言の歌を書き写してでも手紙を書くことができるのではなかろうか。あけぼのの光が射して、暗黒と死の陰に座している、この私を照らしてくださいました。私は悲しみのさなかにあって、こんなにも平安を得ています。この平安があなたにもありますように。このような言葉を書き送ることは許されていないのであろうか。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、372頁
2020年12月17日(木)
ことしも年賀状の季節を迎え、それに先立ちいく枚もの喪中はがきをいただいています。だいたい年賀状を書くのが、25日の期限を過ぎてから、といったことが多いので、喪中はがきをいただいた方には年賀状を出さないことにしています。喪中はがきを出されたということは、その方が、年賀欠礼を伝えておられることです。それに対して、こちらが年賀を語ることを控えるというのは、気を使って「おめでとう」と言わないようにしている、ということなのでしょう。不幸があればおめでとうと言うことを控える、ということは案外想像に難くないことです。
しかし自分自身が喪中である、ということが、人に向かって、おめでとうと言えない、ということを積極的に表明することとなる「喪中につき年賀欠礼」は、加藤先生も言われるように、キリスト者は考えてみる必要があるのかもしれません。
それはそうとして、どんな状況のなかにも、神さまの光が射しこんでくることを信じることは、幸いなことです。
「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」」(ルカ1・78,79)