神の不意打ち

祭司ザカリアは一生に一度あるかないかの光栄ある務めを得て聖所で香をたき、祈りをした。慣れない手つきと言葉で一所懸命手順を踏んでしたことであろう。神殿での営みは古来変わりなく手順を踏んで神を拝むものであったろう。ところが手順が狂った。神に邪魔をされた。祭司が天使を見て不安に思うのもおかしいが、手順にはなかった。神学者カール・バルトは、「私たちの自然の営みが神に妨害されないかぎり、それが癒されることはない」と書いている。信仰の営みでさえ、そうである。神の不意打ち、と言うひともある。神との出会いは予想外である。だが、それによってこそ、私たちの存在も歩みも癒される。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、371頁

2020年12月16日(水)

私たちの歩みに不意打ちをくらわすように神さまのお働きが為される、と。信仰に生きるということは、つねにそのような神さまのお働きを喜ぶことなのだと思います。

「さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。」(ルカ1・8-12)