年老いても目覚めて生きた人びと

エルサレムに連れてこられた生まれたばかりの主イエスを迎えたのは、このふたりである。シメオンも既に老人であったと考えられている。アンナは84歳の高齢、神殿を離れず、祈りに徹していた。ふたりとも神の民の救いのために祈り続けていたようである。それはまさに真夜中に帰ってくる主人にも目覚めて待っていたことを知ってもらえる僕たちそのものなのではなかろうか。・・・どんなに年老いても目覚めて生きた人びとがここにいるのである。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、368頁

2020年12月13日(日)

どんなときも目覚めていたいと思います。また自分自身がどんな状態であっても目覚めていたいと思います。

「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。・・・そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。・・・また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、・・・親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。」(ルカ2・22-39)

「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」(ルカ12・37-38)