これは、神殿のことに熱心なあまり、神にみ顔を背かれてしまった者の嘆きの歌である。神殿に対する熱情も評価されるべき信仰の熱心の現れであると読んでいた私は驚いた。・・・キリストの教会は、最初から神殿を建てなかった。聖地を定め、巡礼を勧めることをしなかった。大教会をたて、聖地エルサレムをめぐって十字軍を起こすようになって、その熱心によって自分を食い尽くす悲劇を味わった。神殿は私たちを滅ぼす魔力を持つ。そのことを改めて知るべきであろう。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、319頁
2020年10月28日(水)
神殿を建設することは、今日のキリスト教会においては教会堂を建設するということにあてはまるということでしょう。教会堂建設や教会堂運営にばかり熱心で、神さまにみ顔を背かれてしまう、そうして自らを食い尽くす悲劇、悲惨に陥るということでしょう。あるいは神さま以外のもので、明らかに神さまとは関係がないというものは別として、聖地巡礼や十字軍といったものは、神さまのため、という包装紙にくるまれているので、中に何が入っているのかが隠されていることもあるということでしょう。
人間はどこまでも罪びとなので、神さまのためといいつつ、神さまを後回しにしてしまうことが起こるのです。
「あなたの神殿に対する熱情が わたしを食い尽くしているので あなたを嘲る者の嘲りが わたしの上にふりかかっています。」(詩編69・10)