ご自身の父なる神が礼拝される場所で商売をする者たちへの怒りは、主の熱心から生まれている。それが結局は主イエスご自身を食い尽くすことになる。主の十字架を招く。弟子たちは、既にその予感を抱いたというのである。存在を賭けた神殿浄化、礼拝浄化、信仰浄化の戦いが始まっていると見たのである。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、320頁
2020年10月29日(木)
昨日は「神殿に対する熱心」を否定的に理解してありましたが、今回はそれが肯定的に理解されています。
主イエスさまが神殿に対する熱心をお持ちになっておられる。その熱心さによって自らに十字架の道を招かれた、ということです。
神殿に対する熱心さが、神殿浄化、礼拝浄化、信仰浄化に駆り立てた、ということです。
当時神殿では何が行われていたのか。両替人が出てきます。いわゆる今日にいうちまたの両替人のように、細かいお金に交換するというのではなく、当時の宗教的な献げものは古銭によってなされていたということから、普段使っているお金を、ユダヤのお金に換えてささげるためであった、といことでしょう。献げものを特別な献げものにするということは悪いことではないと思いますが、普段の生活と信仰生活が分離しているということには大きな問題があるということだと思います。また貧しい人々のささげる鳥が売られていたということは、ここにきて印だけの献げものがなされていたということでしょうか。
いずれにせよ神さまを礼拝するところで、神さまに祈りをささげるところで、様々な人間中心主義があったということなのかもしれません。
イエスさまが十字架にかかられたのは、そういう人間中心主義から神さまを中心とする道を示されたからなのだと思います。命を懸けて神さまを中心とする道をひらいてくださったのですから、こんにち、私たちの礼拝が、常に神さまを中心にして行えているかどうかは、しっかりと振り返らなければならない、と思います。
「弟子たちは、『あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす』と書いてあるのを思い出した。」(ヨハネ2・17)