不信仰を、その宗教的営みに見た

「主が我らの中におられるではないか。災いが我々に及ぶことはない」。この信仰者の言葉と聞こえてもよい言葉が、不信仰そのものの言葉となる。主イエスが、エルサレムの神殿の営みに激怒されたのも、この不信仰を、その宗教的営みに見たからである。私たちの教会はどうであろうか。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、318頁

2020年10月27日(火)

宗教的腐敗は、キリスト教会にとって例外ではありません。常に迫りくる罪です。宗教改革記念日が近づいていますが、それがこの時期であったということに深い意味があります。11月は死者を覚える季節です。それがいつも間にか、聖人崇拝をうみ、さらに聖人礼拝となり、恵みによって救われるということが揺らいできたのです。そのような宗教的行事に抗しての反省、内省が宗教改革の根底にあるのです。公同の教会を信じると告白する教会は、自分の集う教会は愛するする教会であるが、欠けのある教会である、常にへりくだって改革が必要であると告白する教会です。

「聞け、このことを。ヤコブの家の頭たち イスラエルの家の指導者たちよ。正義を忌み嫌い、まっすぐなものを曲げ 流血をもってシオンを 不正をもってエルサレムを建てる者たちよ。頭たちは賄賂を取って裁判をし 祭司たちは代価を取って教え 預言者たちは金を取って託宣を告げる。しかも主を頼りにして言う。「主が我らの中におられるではないか 災いが我々に及ぶことはない」と。それゆえ、お前たちのゆえに シオンは耕されて畑となり エルサレムは石塚に変わり 神殿の山は木の生い茂る聖なる高台となる。」(ミカ3・9-12)