「教会につまずいた」とか「牧師につまずく」という表現がある。ギリシア語の scandalon の訳である。これは狩猟に使う罠の一部をあらわす言葉らしい。
大塚寿郎、牧会ジャーナル、50号、2011年3月1日号、26ページ
誰からなにかをされたから「つまずく」のではなく、自分から手を出してしまうのが「つまずき」だということだ。とすると、手を出さない自由がある。これに気づくことが、自由になるための鍵だとマンスフィールドは言う。
前掲書、26ページ
罠というとそれを仕掛けた側の悪意を想像しますが、きっと罠を仕掛けているかに見える本人もそれには気づいていないのかもしれません。あるいはそういう罠を仕掛けなければいられない背景や歴史があるのかもしれません。そういうことを想像することは、「赦し-恩恵を与える」で考えたことに通じるでしょうか。
つまずきに手を出さない自由を確かにしなければなりません。しかし孤立無援で生きることも難しいしふさわしくない場面もあります。牧師はかかわらざるを得ない職業、つまり手を出さざるを得ない存在なのかもしれません。
それにしても、下手に手を出さず、かつ豊かな関わりを築き上げることが大切なのでしょう。道半ばです。
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