神の選びを信じる

私たちがキリスト者として生きるのは、自分で選択し、決めたことではない。「主イエス・キリストの父である神」(3節)が、私たちを既に選んでいてくださったからこそ、今教会に生きる。教会について語るエフェソの信徒への手紙は、そこを出発点にして語り始める。この選びの事実を賛美することから始める。しかもそれは、私たちを「聖なる者、汚れのない者」にするためであり、「神の子」にするためのものであった。教会は神の子たちの群れである。これはまさにこの神のご意志に根ざすこととして信ずべきことである。だからこそ、私たちは「神の家族」(第2章15節)なのである。私たちが仲良しであり、家族のように気が合うからではない。私たちは、神の選びを信じる。私自身において、私たち自身において。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、260頁

2020年9月1日(火)

自分の信仰生活の土台が、自分の人生の土台が、自分自身にあるのではなく、神さまにある、神さまの愛の選びの中にあると、聖書は語ります。また教会の交わりが、兄弟姉妹の存在が、それぞれの性格やあり方に根ざすのではなく、神さまの選びの中にある、と聖書は語ります。これが見えなくなったとき、信仰生活が成り立たなくなるのだと思います。そして人生が成り立たなくなるのだと思います。

「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」(エフェソ1・4,5)