聖書は率直である。死んだらどうなるか、詳しくはわからない。神が教えてくださらないからである。従って牧師は天国や地獄の話をすることはない。天国に安楽に過ごせるからと言って慰めることはない。しかし、私たちは神を父と呼ぶ神の子、そうであれば、将来、み子と似る者となることは確かである。既に似ているからである。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、251頁
2020年8月24日(月)
下記のヨハネの手紙第一、第3章2節には、死んだらどうなるかは「まだ示されていません」と語ります。もちろん教会では、黙示録などを参考に、天国の様子、地獄の様子がさまざまに語られてきました。しかしそこには人間の願望や、ちょっと勝手な想像や、土着の信心や風習といったものが多分に反映されてきたことでしょう。死んだらどうなるのかについては、正確には聖書は語っていないのです。なぜなら神さまが示しておられないからです。示しておられないということに深い意味があります。聖書は書かれたことが大切なのですが、あえて書かれなかったということもあり、なぜ書かれなかったのか、ということにも、私たちは学ぶことができるのだと思います。人間は善悪の知識の木の実をとって食べて以来「知らない」ということに我慢ができなくなってしまいました。人間であるということは、神さまではないということです。神さまではないということは限界があるということです。知らないということを大切にすることが、人間であるということに留まる、神になろうとしない、という大切なポイントなのでしょう。
「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」(1ヨハネ3・2)