私たちが「あなた」と呼べる神として名乗りを上げてくださった神

私たちの周囲には、いつも脅威がある。私たちの存在を脅かすのは大声ではない。ひそかな声である。その陰謀が狙うのは、私たちの口から「あなたこそわたしの神」という言葉を奪うことである。神を取り違えるのである。「あなた」が神であることが見えなくなることである。・・・私たちが『主イエス・キリストの父なる御神」と呼ぶ時、私たちが「あなた」と呼べる神として名乗りを上げてくださった神を感謝して呼んでいる。「あなたこそ私の神!」。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、246頁

2020年8月19日(水)

神さまを見失う道には二つあるように思います。ひとつは文字通り神さまを見失ってしまうことです。もう一つは、神さまではない別のものを神にしてしまうことです。神さまが見えなくなっているという状態には、神さまが見えないという自覚があります。それに対して神さまでないものを神にしてしまうという状態には、神さまを見失っているという自覚がありません。

神さまでない別のものが、いわゆる他宗教の神であるとか、占いであるとか、因習であるとか、といった目に見えるものであれば分かりやすいのですが、「自己中心」という偶像は目に見えないので、それが偶像礼拝であるということに気づきにくいものです。

聖書を読み、イエスさまを信じ、聖書のことばに従っているといっても、そこにも自己中心の偶像礼拝に生きることは可能です。

「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。」(ガラテヤ5・19-21)

この肉の業と挙げられているものは、まだイエスさまを信じていない人に向かって語られているのではなく、イエスさまを信じたと告白している人に向かって語られているのです。

神さまの前に真実にへりくだり「あなたこそわたしの神」と告白し続けるためには、その告白に生き続けるためには、教会共同体に繋がり、共に礼拝を献げることによって育まれます。

「ひそかな声が周囲に聞こえ 脅かすものが取り囲んでいます。人々がわたしに対して陰謀をめぐらし 命を奪おうとたくらんでいます。主よ、わたしはなお、あなたに信頼し「あなたこそわたしの神」と申します。」(詩編31・14,15)