パウロの伝道の成果、それは伝道者が語る言葉を神の言葉として受け入れたことである。だが、それだけではない。み言葉を語る伝道者たちに倣う者となったのである。いや、それだけでもない。更に、自分たち自身が、他の諸教会の模範となった。キリストの教会は、このように伝道者の説教を神の言葉として聴く、<神の言葉に生きる共同体>であると共に、伝道者の姿に倣い、また他者の模範となる<模倣の共同体>でもある。しかもそれはばらばらではない。そのことによってこそ、主の言葉が教会から出て、響き渡る。言ってみれば、<主の言葉の共鳴体>になる。これが私たちの教会の現実であることをひたすら願う。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、230頁
2020年8月3日(月)
主の言葉とは聖書のことばですが、聖書のことばは、いわゆる逐字霊感説的にそれ自体がお題目のように力をもって人びとを導くということとはちょっと違います。もしそうであれば、礼拝の中での説教はいらないですね。主を信じ、主に献身している信仰者が、その聖書のことばを読み、釈義し、理解し、慰めを得、力を得て、その説教者の言葉を通して語られる、そうして神のことばとなる、と言えるではないでしょうか。神さまの言葉である旧約聖書を、初代の教会は解釈をし、使徒たちの信仰の証の中で語られていった新約聖書そのものに説教の原型があるように思います。その新約聖書をお題目にしてしまっては本末転倒です。ただ解釈というと人間の誤謬がそこに入ると心配になることもあるかもしれません。ですから聖書は、教会の伝統や教理に従って読むということがとても大切です。聖書が最初にあって、教会ができて、教理が生れたのではなく、教会が生まれ、教理が育っていく中で聖書のことばが結集(けつじゅう)されたということですから。
主の言葉の共鳴体となる。これが私たちの教会の現実であってほしい、と願います。そのためには「神のことばに生きる」「模範の」「模倣の」共同体である、という教会のあり方が問われています。
「そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。」(1テサロニケ1・6~8)