帰るべきところに立ち帰った

テサロニケの教会の噂が広まっている。悪い噂ではない。あそこで伝道者がどんなに歓迎されたか、どのようにキリスト者が生まれたか。こういう噂は喜びをもたらす。パウロは、異邦人たち、これまで偶像しか知らなかった人びとがキリストの神を知ったとき、帰るべきところに立ち帰ったのだという。本来の人間に戻ったのである。信仰を与えられることは、特別な人間になったり、風変りな存在になることではない。本来もっと早く帰るべきであったところに帰ったのである。その神のふところに生きる者には楽しみが増える。み子の来臨を待つ楽しみである。神の怒りから救い出された安心した思いでみ子キリストを待つようになったのである。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、231頁

2020年8月4日(火)

ひとつの地方教会についての噂が、キリスト教界にどのように広まっているのかということに、少し注目させられる言葉でしょう。

それはそれとして、キリスト教信仰を持つということは、「偶像から離れて神に立ち帰る」ことである、とパウロは語りました。教会に生きる信仰者こそ、人間本来の健やかさに生きる者である、ということでしょう。

「彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。」(1テサロニケ1・9,10)