貪欲は

貪欲は金銭、地位、名誉、異性、さまざまな領域に及ぶ。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、218頁

2020年7月23日(木)

偶像礼拝とは何か。旧約聖書では、まずはバアルやアシェラといった地にあるご利益宗教のことを偶像礼拝と語っていると思います。しかしよく読んでみると、徐々に心の偶像礼拝が語られるようになります(第一サムエル記15章23節)。新約聖書では、おおよそ心の問題を語っているように思えます。たとえば律法に比べてみますと、旧約聖書では十戒において殺人を戒めていますが、新約聖書ではマタイの福音書5章からの山上の説教の中で、心の中の殺人を戒めています。そのように新約聖書では、偶像礼拝についても、心の問題を語っているように思えます。

キリスト教会は、旧約聖書を破棄して新約聖書だけを読むことを、マルキオンなどにみられるように、異端としました。キリスト教会は、旧約聖書を新約聖書の光の中で読むことをしたのだと思います。そうすると、偶像礼拝についても、旧約聖書を読むときも新約聖書の光の中で読んでいくことになります。つまりバアルやアシェラといった地にあるご利益宗教のことを偶像礼拝というのですが、そこでも心の問題として読んでいかなければならないといことでしょう。心の問題として読むということは、精神と肉体を分ける二元論的な意味で、精神的に読むということではありません。肉体や外見的な行動はどうでもよいというわけではありません。心の問題として読むということは、自分の全存在として読むということです。

そこであらためて新約聖書は偶像礼拝のことをどう語っているのか。エフェソ書では「貪欲な者」のことを「偶像礼拝者」、コロサイ書では「貪欲」は「偶像礼拝」である、と語っています。

「すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。」(エフェソ5・5)

「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。」(コロサイ3・5)

「偶像礼拝」=「貪欲」ということを、他の個所にも当てはめてみましょう。

新約聖書には、偶像礼拝という言葉が、上記のエフェソ書、コロサイ書以外に、第一コリント書、ガラテヤ書、第一ペトロ書に登場します。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。」(第一コリント10・13-14)

「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」(ガラテヤ5・19-21)

「かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。」(第一ペトロ4・3)

いずれも、他宗教の神々を拝むことと理解することも可能かもしれませんが、やはり心の問題として理解した方が、しっくりときます。「偶像礼拝」という言葉のところに「貪欲」という言葉を当てはめて読んでみるとしっくりくるのではないでしょうか。

試練のなかでも忍耐をもって生きることを難しくさせるものが貪欲であり、さまざまな倫理的な乱れは、その根底に貪欲があるということでしょう。

そうすると、確かに神社仏閣や仏壇、神棚には手を合わさず、お焼香なども一切しないとしつつも、「貪欲」に生きてしまっているならば、それは偶像礼拝者であるということになります。そうであれば、神さまの祝福の道を歩むことは難しくなってしまうということでしょう。