隣人愛には想像力が不可欠

カトリックの哲学者 今道友信さんが、隣人愛には想像力が不可欠だと書かれたことがある。愛の乏しいひとは想像力が乏しいのである。共に生きる者の内側にまで目が届くこと、そのこころのうちに不作法に踏み込むことは許されないが、それだけに豊かな想像力をもって、そのうちにある痛みや苦しみに届く言葉とわざを見出すことである。・・・想像力もまた、私たちに与えられている力である以上、鍛えることができる。文学に親しむこと、さまざまな芸術に触れること、そして観察と思索を深めること、それを繰り返すことによって鍛えられる。ひととの対話を、よく聴きながら、愛をもってそのこころに触れる練習をすることで深められる。憐れみ深く、謙虚であることは、既にそこで求められる。想像力の修練は愛の修練である。愛そのものが修練によって鍛えられるのである。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、217頁

2020年7月22日(水)

英語の辞書で「同情」をひくと「sympathy」と「compassion」とかが出てきます。英語の聖書もこのいずれかを記しています。何かに、上記のことばは感情的な理解であるが、「empathy」ということばがあって、これは知的な理解である、というようなことを読んだような気がします。いずれにせよ「同情」は、上から目線ではなく、ともに同じところに立って、痛みや愛を共有するということでしょう。

まったく同じところに立つということは不可能なので、あるいはふさわしくないので、想像力は不可欠です。

想像力を豊かにするために、それを鍛えるために、文学、芸術、多くの人との対話は大切なことなのですね。

「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。」(1ペトロ3・8)