説教に代表されるような言葉を語ることこそ、愛そのもの

預言、これは今日の説教と言えるが、ここでは教会員の誰もが語り得る、初心者にもわかるようにこころを配って語られ、神の臨在を証しする言葉である(25節)。ここではそれを、ひとを造り上げ、教会を造り上げる言葉であるという。くずおれているひとを励まし、慰め、立たせてあげるのである。それこそが愛なのである。愛がなければ、教会のおける言葉が空しくなるというようなことではなく、説教に代表されるような言葉を語ることこそ、愛そのものなのである。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、212頁

2020年7月17日(金)

聖書の語る愛とは、「行動」ではなく「ことば」である、ということでしょう。この世では、ことばよりも行動だ! と語られる場面が多いような気がします。教会においてさえ、そのように主張された時代があり、今もそのような教会こそこの世にあって評価されています。しかし「ことば」を語ることこそ愛そのものである、と語るパウロのことば、聖書のことばに、この世ならぬものを感じます。慈善事業ならばこの世のさまざまな働きでも可能なのですが、神のことば、人を真に立たす神のことばを語るところは、教会だけでしょう。

「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。」(1コリント14・1-4)