罪人の中の際たる者、それは、誰よりも先に憐れみを受けなければ生きていかれなかったということである。憐れみなくして生きられない見本、それが伝道者である。そうであればこそ、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という平凡に見えて非凡な言葉を語るようになったのです。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、201頁
2020年7月6日(月)
罪びとの中の最たる者である、と自分自身をとらえることがキリスト者として生きていくということです。罪びとの中の「かしら(頭)」と訳されている聖書が多い中、新共同訳聖書は「最たる者」と訳しました。2018年11月に発刊された『共同訳』になって、ふたたび「頭(かしら)」に戻りました。
かしらというと、少し、罪びとの中の偉い人、一目置かれている人、という感じもしますので、時おり見受けられるキリスト教会のなかでの「罪びと自慢」みたいなことが許容されるようなことにもなりかねない、ということでしょう。
いずれにせよ「最たる者」「かしら」ということが分かるということがなければ、神さまのあわれみも本当には分かったことにならないということでしょう。確かに私は罪びとだけれども、あの人よりはましだと思っているならば、神さまのあわれみも愛も分かっていないのです。
「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。」(1テモテ1・15,16)