私たちはいつも問いを抱いている。問いを抱いて信仰を求め始めたし、牧師に代表される教会にいつも問い続けている。しかし、問いを抱きつつ聖書を読み始めると、実は、自分が問われているのだということに気づく。
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この問いは招きであることにも気づく。
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主イエスだけが私たちを招くことがおできになるからである。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、197頁
2020年7月2日(木)
興味をもって質問をすることは、意欲的に学ぶことにつながります。一方的に聴いているだけでは、なかなか心に入って来ないものですし、入って来てもすぐに出て行ってしまいがちです。質問をすることで、深く印象に残るのです。科学の知識はこうして私たちの頭の中に構築されていきます。
しかし信仰は、生き方の問題ですから、いくら知識を増したとしても、その知識に生きるかどうかは別のことでしょう。生きるということは決意です。それまでの自分をどこか壊すことです。自分を変えることでありへりくだることです。ですから問われていることなのです。
「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』」(ヨハネ11・25-26)
「イエスは、『何をしてほしいのか』と言われた。盲人は、『先生、目が見えるようになりたいのです』と言った。」(マルコ10・51)
「イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』」
(マタイ16・11)