人びとは、主イエスの周囲に群がり、主ご自身の手で病癒される奇跡に熱狂していたのであろう。このひとならば救いをもたらすと信じたのであろう。だが、主イエスご自身は、その人びとを信じ、信頼し、これに身を委ねる思いを抱かれることはなかった。・・・私たち自身が知るよりも深く、そのこころを究められているのが主である。主に信頼していただけるような私ではない。主を捨てたペトロが、私たちの代表でしかない。痛みを覚えつつ赦しを乞うより他ないではないか。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、196頁
2020年7月1日(水)
自分さえも自分を信じることができない私を、主イエスさまが信じてくださる、ということは恵みであると思いますが、本当は、主イエスさまは、私以上に私のことを信じておられないということも現実なのだと思います。私のようなものをうっかり信頼して私に私をゆだねてしまわれたら、私はいったいどうすればよいのでしょうか。私を信頼しておられないので、ご自身の御手の中にしっかりと握りしめていてくださるのだと思います。
神さまに愛されているということはとても大きな喜びです。これ以上に無い喜びです。しかしそれは私の中には愛される理由がないということが前提となって生み出される喜びなのだと思います。私の中に愛される理由を発見して、それを喜んでいてくださる神さまを喜んでいるとすれば、それは結局のところ、自分を信じ、自分を賛美し、自分の栄光を讃えている偶像礼拝なのだと思います。
「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」(ヨハネ2・23-25)
「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。心を探り、そのはらわたを究めるのは/主なるわたしである。・・・」(エレミヤ17・9-10)