エフェソの教会は、その疲れ果てることのない忍耐をほめられている。教会にとって、キリスト者にとって。最も大切なことは耐えることである。だがまさにそこに落とし穴がある。初めの愛から離れることである。愛から始めたのである。愛されていることを知ったことから始めたのである。それに答えて燃える愛を献げたのである。そこに戻る。戻ればよいのである。それこそが、ルターの求めた、「日ごとの悔い改め」に生きることである。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、180頁
2020年6月17日(水)
初めの愛から離れてしまうこと。それが信仰生活に起りうる問題である、とヨハネは語ります。どんなに忍耐に生きても、あるいは忍耐に生きれば生きるほど、初めの愛から離れる誘惑が起こるということかもしれません。
忍耐は耐え忍ぶということですが、それは自分の力でなすことではなく、神さまの愛の御手の中でなさせていただくことです。ですから忍耐に生きようとするならば、神さまの愛に常に包まれていることを知っていなければなりません。にもかかわらず愛から離れてしまうのは、忍耐ではなく我慢をしているからではないでしょうか。我慢は、我を慢心させる、と書きます。自分のほまれ、自分の満足が目的となってしまっているのです。そのような生き方には喜びは生れず、疲れ果て、やがてその人生は滅んでしまうのではないでしょうか。
私たちは神さまの愛の中にあるのです。どんな状況、どんな状態の中にあっても神さまの愛は変わることなく、私たちを包み込んでいるのです。
「あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。」(黙示録2・3-5)