今日本の教会が必要とするのは、この説教者のための祈りである

伝道者が教会員に、自分のために祈ってほしいと頼んでいる。どれだけ多くの説教者が、この願いを抱いていることであろう。・・・今日本の教会が必要とするのは、この説教者のための祈りである。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、179頁

2020年6月16日(火)

獄中のパウロが、その迫害の中にあって「神の神秘を大胆に示すことができるように」祈ってほしいと、教会員に願っています。この願いの切実さは説教者になってみないとなかなかわかるものではないのだと思います。説教者は、会衆の祈りに支えられてなんとかその任を全うできるのです。

カトリック教会のミサの中で司祭が説教するところがありますが、そのときには傍らで他の司祭が説教をする司祭に向かって手をかざして祈り続けています。説教の間中祈り続けています。その姿を見ながら聴く説教の言葉には、なにか尋常でないものを感じます。会衆は食らいつくようにそのみ言葉に耳を傾けています。説教自体は短いお話しですが、話す者、祈る者、聞く者が一つとなってみことばに仕えているその礼拝の様子に、神さまの大いなる神秘の恵みを感じます。

プロテスタント教会ではどうでしょう。

「また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。」(エフェソ6・19-20)