言葉が氾濫しているようで、どれだけの言葉が通じているであろうか

耳があるということは、そのひとが聞いていることを、聞いて理解していることを意味してはいない。私たちの会話なるものを記録して分析するとよい。多くの場合、自分の話ししかしない。聞いてはいない。誰かが病の苦痛を訴えても、すぐに、そう言えば私も、と言い出す言葉で遮られる。・・・言葉が氾濫しているようで、どれだけの言葉が通じているであろうか。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、178頁

2020年6月15日(月)

私たちの人生が祝福されないのは、耳がない、聞いていない、聞こうとしていないのが、その原因である、ということでしょう。神さまが愛のことばをかけて下さっても聞いていない、進むべき道を指し示してくださっても聞かない、滅びに向かうのを警告してくださっても耳を貸そうとしない、いつも自分のことばかり話す、話さずにはおれないのです。神さまに対してこうなのですから、ましてや共に歩む隣人に対しても、その語られる言葉に耳を貸そうとしないのです。聞かないのです。それではともに歩むことはできません。

しずかに語られる神さまの御声に耳を傾けるために、うしろの戸を閉じてこころをしずめましょう。

「耳のある者は聞きなさい。今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。・・・」(マタイ11・15~)