甦られた主イエスが弟子たちとの再会の場所をして指定されたのは、なつかしいガリラヤの山であった。あの山上の説教を語られた山であったかもしれない。そこで弟子たちに命じられる。すべての民を弟子とし、かつて語られたあの弟子としての道を歩むことができるように、洗礼を授けなさい、と。ここにキリストの教会の使命が確立された。主イエスが派遣された弟子たちの歩みによって造られた教会は、この弟子たちのわざを受け継いでいる。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、165頁
2020年6月2日(火)
宣教命令として語られるこのマタイによる福音書の最後の個所は、一つの言葉に集中します。それは「弟子としなさい」という言葉です。「行くこと」「洗礼を授けること」「教えを守るように教えること」はすべて分詞です。無理やりに訳すと、「行って弟子としなさい」「洗礼を授けて弟子としなさい」「教えを守るように教えて弟子としなさい」ということでしょうか。
洗礼を授けられても、教えを受けても、弟子となっていないならば、イエスさまの子の宣教命令に生きているとは言えないのです。
弟子とはいったい何でしょう。主の弟子であるということがキリスト者であるということと同じ言葉であるとすれば、私たちは主の弟子としての道を生きているかどうかが大切な問いなのです。
「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』」