ルカが伝えるのは、どのようにしてペトロが主イエスの弟子となったのかということである。・・・自分が聖ならざる存在であることを知らざるを得なくなる聖さを持つ方であることを知った。主を拝まずにおれない。そのペトロを立たせ、弟子としたのが主なのである。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、145頁
2020年5月14日(木)
ペトロが召命をいただいた時の様子が、ルカの福音書5章に記されています。イエスさまが群衆にお話をするのに、近くにいた漁師の舟をお用いになられたことが始まりでした。その舟の持ち主がペトロでした。その時、漁師のペトロは、夜通し漁をしたけれども、何の成果もあがっていませんでした。不漁の朝に少なからずがっかりした気持ちをもって網を洗っていたのでしょう。そんなときに、イエスさまから声が掛かったのです。
さてイエスさまの群衆への話しが終ると、不思議なことをイエスさまは言われました。もう一度沖に出て、網を降ろして、漁をしなさい、と。当然のようにペトロは、それは無理ですよ、漁に最適の夜に働いても何も捕れなかったのですから、こんなに日が昇ってからは不可能です、と返答します。しかしそういいつつもペトロは言います。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と。するとおびただしい魚がとれました。その一切を見たペトロの反応が8節です。
自分の常識からするとありえないことなのですが、主のお言葉なのでそれに従ってなした行動。その行動によって、大きな奇跡を経験したペトロ。その奇跡を目の当たりにして、自らの罪深さを発見したのです。そうせざるを得ないような聖さを、この主イエスさまのうちに発見したのです。そのようなペトロを、イエスさまは弟子とされました。
奇跡を見て、これ幸いと自分の便利屋さんのように、神を利用する者にはまったく分からないことでしょう。奇跡を見て、そこに神さまの聖さを発見し、と同時に自分の罪深さを発見する、あるいは認める、そこに弟子として招かれる道がひらかれるのです。聖い神さまの前からは離れなければならない自らである、ということを知る者だけが、主イエスさまのおそば近くに歩むことができるといことでしょう。
「これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。」(ルカ5・8)