恥を押しのける力は神に

パウロも福音を恥じるこころを知っている。伝道することに伴う恥ずかしさがある。私たちのなかに、自分が教会員であることを隠す性癖がある。信仰に生きていることを言い訳しながら生きている。その恥を押しのける力は神にある。ギリシア人にさえも救いを与える力である。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、146頁

2020年5月15日(金)

「わたしは福音を恥としない」。このような言葉が出てくるということは、こころのどこかで恥じていることを感じるからでしょう。もし本当に恥じていないならば、こんな言葉さえ出てくることはないのではないかと思います。パウロは誰よりも福音を恥じてしまうこころを知っていたのだと思います。

そのような恥を「押しのける力」は神さまにある、といいます。つまり自分にはないのです。恥を押しのける力が自分からのものであるならば、それは本当に福音に生きているとは言えないのです。自分の力で生きているだけであって、平安と喜びに生きることにならないのです。

そうすると、「わたしは福音を恥としない」と語ることは、わたしの中には福音を恥じるこころがある、しかしそのこころをイエスさまがいつも押しのけていてくださる、と感謝をこめて告白すること、なのでしょう。

「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(ローマ1・16)