熱いほうか、冷たいほうか、それともなまぬるいか。多くの者が、自分はなまぬるいほうだと答える。それが正直なことだと思っているのである。しかし、そこで忘れてはならないのは、なまぬるいのは、主イエスにとって最も我慢ならないのであって、主が吐き出すような存在になっているということである。・・・なぜなまぬるいのか。・・・錯覚した豊かさに満足して、自分の惨めさ、貧しさ、裸であることに気づかないからである(17節)。気づいたら、熱心に努め、悔い改めなければならないのである(19節)。戸口にキリストが立っておられることに気づかないことこそ、なまぬるいままでよしとする姿勢を作っているのではなかろうか(20節)。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、144頁
2020年5月13日(水)
信仰の熱心さとは、悔い改めの熱心さである、ということができるのかもしれません。ひたすら私のためにいのちをすててくださった神さまがおられることを知り、その愛の中に心をひらき、主よあわれんでください、と祈ることなのでしょう。それは自己憐憫でも自己卑下でもなく、自分を生きる喜びなのだと思います。
「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(黙示録3・15-20)