内村鑑三はアメリカに渡り、アマースト大学で学んでいたとき、シーリーという教師に導かれて、第二の回心を経験する。そのとき、こう言われた。「内村君、君は自分のこころのうちばかりを見るからいけない。君は外を見なければいけないのだ。なぜ自分を顧みることを止めて、十字架の上に、君の罪を贖いたもうイエスを仰ぎ見ないのか。君のなすところは、子どもが植木を鉢に植えて、その成長を確かめようとして、毎日その根を抜いては見るのと、同然である。何ゆえにこれを神と日光に委ねたてまつり、安心して君の成長を待たぬのか」。自分のこころのなかをいつも覗き込み、しかも不安に満ちて植木を引っこ抜くように、自分の魂をいじくっている。それは誠実なようであるが不信仰でしかない。・・・罪の贖いの確かさもまた外にある。仰ぎ見る主イエス・キリストのところにある。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、139頁
2020年5月8日(金)
罪の贖いの確かさは、自分という存在の「外」にある、のです。しかしどうしても自分の「内」に見出したくなるのです。それが「律法主義」でしょう。加藤先生は、それは誠実かもしれないが不信仰でしかない、と言われます。イスカリオテのユダは自らの罪に自分のうちにを見つめた誠実さの中に滅んでいきました。同じく主を裏切ったペテロは、自分に絶望しつつ、しかし主のお言葉に出会って生きる道に進みました。外を見つめようとしたのです。自らの内には絶望しかありません。ひたすら外に、主イエスさまの十字架に、復活の主の暖かなお言葉にこころを向けていきたいと思います。
「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。」(ローマ4・18-20)